「ひきこもりの国」 <3>

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 1999年、引きこもりの息子を持つ60歳の男性がついにタブーを打ち破り、行動に出た。奥山雅久、全国に百万人以上居ると言われる、引きこもりに苦しむ人たちを支援するための親の会の設立だった。「全国ひきこもりKHJ親の会」。奥山が言う。

 「日本のシステムには構造疲労の兆しが見える。日本の若者たちが大人になろうとしない、なれないのはそのためです。自分の子どもがいつ引きこもりになってもおかしくない、そういう恐ろしい時代なのです。」

 ジーレンジガーが述べる。

 「外からの、特に外国人からの圧力がなければ、日本は自身が抱えている社会的機能不全に正面から取り組もうとはしないだろうと奥山は確信している。より多くの外国人が日本社会の病理を暴き、解明するようになれば、日本政府もそれを恥じて、もっと敏感に反応するようになるだろうと。日本人はよく言う。日本はマニュアル社会だと。官僚はマニュアルに書かれていないことが発生するとどう対応していいかわからなくなる。日本国民が、官僚たちの硬直性や意思決定のあいまいさを公然と非難できるようになったのは、おそらく阪神・淡路大震災以降のことである。あの大震災のときの官僚組織の対応はあまりにもお粗末だった。」

 奥山は有志と共に全国に支部を立ち上げた。2,003年、やっと厚生労働省ガイドラインを発表した。

 ジーレンジガーは、日本の一青年の話を紹介している。

 「ジュンの長期に渡る底なしの憂鬱は海外旅行によって終わる。それはタイへの旅だった。一挙手一投足を監視されているように感じられる日本の抑圧の壁から逃れ、ジュンの不安は和らいだ。バンコクバックパッカーの安宿に滞在したとき、日本からタイに移住してきた手工芸品店の店主と親しくなった。その男性との会話でジュンは大いに励まされた。

 ぼくも、自分で生計が立てられるようになりたい。自立したい。

 ジュンは日本に帰り、心理療法を受ける。3週間の野外合宿に参加し、丸太小屋で生活し、農場で馬や家畜の世話を手伝った。ジュンはそこで人を信頼し、他人と友情で結ばれることを体験で教わったのだった。」