黒豆を播く。
三、四粒の豆の播き穴に、草木灰をひとつかみ入れる。その上にモミガラをやはりひとつかみ置く。明日は雨になる。
草木灰は畑と周囲の草刈りで、それ用に枯れ木と彼草を燃やして作っておいた。草木灰を入れるのは、子どもの頃、田んぼの畦に大豆を播き、播き穴に灰を入れていたのを思い出した。モミガラはクルミのおばちゃんが庭に積んでシートをかけてあるところからもらう。我が家から黒豆を播く畑まで1キロほど離れている。畑は借りている農地で、クルミのおばちゃんの家の裏にある。
「モミガラ、ください。」
「いくらでも持って行っていいよ。」
おばちゃんは笑顔で言う。おばちゃんと言っても、もう80を超えている。けれど元気だ。よくおしゃべりをするし、陽気に笑うし、ぼくが夕方5時を過ぎて畑でやっていると、
「もう上がりましょ。」
と声をかけに来てくれる。
それは一週間ほど前のことだった。
「最近、ご主人を見ないけど、お元気ですか?」
するとおばさんは二呼吸ほど置いた。
「この1月に亡くなったのよ。」
「え――っ」
ぼくの声は周囲に響き渡るほど大きかだった。
肺炎になってしもうたと言う。ああ、どうしたんだろう、変だな、と思いながら、ぼくはおばさんに聞かなかった。冬から春、あまり畑に来なかったせいもある。ご主人、去年は毎日畑に出ておられたのに‥‥。
おばさんは一人暮らしになった。田んぼはもう作れないからと、草が生えている。おばさんは、毎日毎日、亭主の分までと畑に出ておられる。
「でもね、東京と大阪に出ている息子二人の、弟の方が、定年になったら帰ってくると言ってくれてるだ。」
「よかった、よかったね。あんまり無理しないでね。」
日曜日に安曇野マラソンがあった。
ハーフマラソンで、息子がそれに参加するからと孫二人を連れて金曜日に兵庫から帰ってきていた。
当日、応援しようと、家内と孫たちで出かけた。マラソンの中間地点に近い所に、応援の人垣ができていた。そのなかにボーさんの姿があった。
「ここで、彼が彼女にプロポーズする計画でね‥‥。」
三年前、ボーさんの農家民宿に泊まったシンガポールからの青年旅行者の二人に愛が芽生え、三年越しに温めてきた。この日、再来日してマラソンに参加し、途中で彼はコースから飛び出して、応援に来ている彼女に、プロポーズするという。この計画にボー君夫婦も加わって、いろんなしかけも準備していた。
マラソンの走者が次つぎと走り過ぎていく。若い人より年配の人の姿が多い。70か80ぐらいの高齢者も走っている。9時50分ごろ、息子がやってきて、孫たちの歓声に迎えられ、また手を振って走っていった。
それから10分ほどしてプロポーズする青年がやってきた。目立つように紅い服を着ていた。あらかじめ示し合わせていたその場所に来ると走者の群れから離れ、彼は人垣のなかの彼女の前にひざまづいた。ボー君から花束を受け取った彼は彼女に捧げる。とたんにポポン、ポポンと周囲のクラッカーが鳴った。
「プロポーズ、プロポーズ」
「おめでとう、おめでとう」
周りの人びとから拍手が湧きおこり、花束を受け取る彼女の顔は喜びでいっぱいだった。