奈良の環境、東京の環境 信州の環境


 1961年に開園した奈良ドリームランドは、2006年に閉園となり、今は廃墟となっている。
 ドリームランドの東に高句麗の僧・慧灌の創建とされ、天平時代、聖武天皇が伽藍を建立したという般若寺がある。西には在原業平聖観音像を刻んで開基した不退寺がある。。別名「業平寺」だ。南に庭園の美しい尼寺・興(こん)福院(ぶいん)がある。北側には元明天皇陵がある。一帯の佐保山は昭和12年風致地区となったところだ。
 三十ヘクタールの敷地の奈良ドリームランド日本陸軍の練兵場だった。敗戦後、10年にわたり米軍に接収された。解除された後、この土地は奈良市の所管となり、奈良ドリームランドが計画された。それはアメリカのディズニーランドの日本版で、「奈良の夢の国」というキャッチコピーでたくさんの客を集めた。
 当時、若草山から西北西に目をやると、巨大なドリームランドが見え、全く古都の景観と古都の文化に調和しない異質な姿だった。それが今は廃墟、ゴーストタウン化している。

 開発の波はゴルフ場建設にも現れた。広大なゴルフ場は奈良県下三十四か所にも及んでいった。大和高原と呼ばれている緑野、山林はブルドーザーで削られた。
 大和は、関西の産業経済圏を支えるベッドタウンに変貌し、鉄道の沿線の農地も山林も野放図な開発に蚕食され、調和も秩序も乏しい、人工物の荒野となった。

   大和は 国のまほろ
   畳(たたな)づく 青垣
   山籠(こも)れる 大和し うるはし

 この望郷歌は、古事記ではヤマトタケルが生命をかけた遠征から伊勢の地に帰ってきて命が絶える時に歌ったとされ、日本書紀では景行天皇が旅の中で大和を想って詠んだとされている。神話の世界、もともと別にあった歌が、物語の中に挿入され使われたものだ。そのころの望郷の大和がどんなに美しかったか、想像するにつけ、現実の大和は重く心にかぶさってくる。

 今朝の新聞に、中央大学教授・石川幹子さんへのインタビュー記事が出ていた。石川さんは、環境デザイン、都市環境計画の専門家である。
 石川さんは、今問題の東京オリンピック施設の環境問題を、100年後の子孫を考えてつくるべきだと提唱している。

 新国立競技場の整備見直しを求める提言を日本学術会議が2月初めに公表した。五輪の遺産を残し、コストも削減するには、まだ検討が足りない。
 50年先、100年先の世代に私たちは何を残せるか。21世紀の課題をみすえた長期的な視野からの議論が抜け落ちたまま進められている。新国立競技場は、神宮外苑の中にある。外苑の緑と水は、先人たちが築いてきた遺産であり、この環境を持続可能な形で未来につなぐことは五輪のレガシーを考える上での象徴的なテーマなのだ。
 2012年のロンドン五輪は、産業革命以来の環境汚染の宿題を解決する壮大な計画が組み込まれていた。主会場は、ロンドン東部の、かつての工場地帯で、一帯は土壌汚染が深刻だった。カヌーの競技会場となった川もひどく汚染されていた。
 第2次大戦中の1944年には、この負のストックを水と緑で再生させる構想が描かれていた。
 終戦を見越した戦災復興計画は、一帯をグリーンベルト、つまり緑の帯としてよみがえらせようと構想した。そして、半世紀以上前からのこの悲願をロンドン五輪で実現させたのだった。

 では東京五輪はどうなのか。
 建設費の高騰でザハ案が白紙撤回され「木と緑のスタジアム」として再スタートしたけれど、周辺の人工地盤の上を緑地化し、『立体都市公園』として整備する計画は、ザハ案のまま続いている。この計画では人工地盤上に小川もつくることになっていて、一見、森らしくみえるけれども、これはニセモノの森なのだ。自然共生の考え方とは相いれない。
 道路や駐車場の上にコンクリートで人工の地盤をつくり、そこに土を入れ木を植えるためには、普通より丈夫な構造物をつくらなければならず、建設コストはかさむ。水やりなど維持管理の費用もかかる。無理をして植えた木は長生きしない。コンクリートの建造物の寿命は50年。やがてぼろぼろになる。人工地盤上の緑地や小川は本物ではない。このままでは負のレガシーを残すことになる。
 取り壊された旧国立競技場の横は、都立の明治公園の敷地だった。そこが新国立競技場の建設のため更地にされ、新たな公園がつくられる。だが新競技場が以前より大きくなるため、公園用地が小さくなってしまった。
 神宮外苑という緑の豊かなところにあった公園を壊し、その一部を人工的な立体公園に切り替えるのは、制度の趣旨になじまず、本末転倒である。
 人工地盤上に『立体都市公園』の制度を適用するのをやめると建設コストと維持コストの削減が確実に達成できる。人工地盤を取りやめて、シンプルな構造の屋根を造って仮設通路にすれば、終了後、取り払って公園にして、大地に木を植えれば、水辺と一体化した公園ができる。

「五輪向けと五輪後の二段構えにすることで、人工地盤が取り壊される50年後を待つことなく、100年続く杜(もり)をつくれます。
 1964年の東京五輪の選手村は、日本で初の森林公園として生まれ変わった。代々木公園です。戦前、陸軍の練兵場として使われ、戦後、GHQに接収され連合国軍の兵舎や家族用宿舎が建設されていたのです。この一帯が五輪を契機に返還され、選手村として利用したあと、公園として整備したわけです。
 一方、東京では20近い中小河川が暗渠化され、地下に消えました。 下水道が整備されたいま、次の五輪は川を復活させ、水辺と緑地を一体整備する絶好の機会となります。上流にある新宿御苑下流の渋谷駅周辺でも、せせらぎの復活に取り組んでいます。
 東京の緑は明治のときより濃くなっています。先達は先を見すえ、計画的に緑をつくってきました。なかでも壮大だったのが明治神宮の内苑・外苑です。造園学者たちが、100年後の姿を思い描きながら、杜(もり)をつくっていったのです。五輪の年でちょうど100年。内苑の杜は、ほとんど彼らが想定したとおりの姿に育っています。
 まだ時間はあります。神宮の杜を熟知した造園家や河川技術者、市民などが集まれば、レガシーと呼ぶにふさわしい緑地と水辺を生み出すことができるはずです。
 100年前、明治神宮の内苑・外苑の整備では、総計13万5千本の樹木が植栽されました。うち10万本近くが、全国からの献木だったと記録にあります。今回も、神宮の杜再生の基金をつくればいいと思います。将来の子どものためにと、企業や個人から寄付を募れば、出費を抑えられるし、自分たちの杜という意識も生まれます。このように五輪を手元に引き寄せてみるのが、大切でしょう。」

 100年後をえがいて、子どもの育ち場を考えて、環境を創っていく。奈良の問題もそうだし、東京の問題も、今住んでいる安曇野も共通する問題なのだ。自然はいっぱいある、今更木を植える必要がどこにある、と考える人は、身近な生活空間の自然の喪失、美の崩壊の著しいことに気づいていない。安曇野の、今は亡き二人の写真家、田淵さんと中沢さんは、写真撮影という仕事を通じて、数十年前から安曇野の劣化に気づき、深い憂いをもって警鐘を打ち鳴らしてきた。
 行政も住民もそれに気付かないのだろうか。