関東大震災にまつわる出来事


 関東大震災が起こった1923年9月1日から1年たった9月1日、陸軍大将福田雅太郎が拳銃で撃たれる事件があった。犯人はその場で取り押さえられた。拳銃を撃ったのは和田久太郎という男で、労働運動社に所属する無政府主義者であった。拳銃の弾は予期せず空砲であったために陸軍大将福田雅太郎は軽い傷を受けただけですんだ。福田雅太郎は、関東大震災のときの戒厳司令官だった。この事件によって歴史に名をとどめた和田久太郎という人物の伝記を松下竜一が書いている。(「久さん伝 あるアナキストの生涯」講談社 1983)
 なぜこのような事件を起こしたのか。それは1年前の関東大震災に原因があった。
 和田久太郎は、公判廷で次のような陳述をした。

 <僕のこの度の行為は、僕が常に抱いている主義思想とは関係がなく、一昨年、震災の混乱を利用して、「社会主義者朝鮮人の放火暴動」などというウソ八百の流言を放ち、火事場ドロボウ的に多くの社会主義者朝鮮人支那人が虐殺されたことに対する復讐である。
 その当時、流言飛語を放った者を厳罰する法令が出て、その飛語を取り次いだ者の二、三が罰せられたことは白日公然の事実であるから、すなわちその流言飛語を放った犯人が、時の政府でなく、その下に活動した憲兵隊でなく、警視庁でなかったことも、確かに白日公然の事実である。
 しかしながら、それと同時にあの当時、各所に流言を放って歩いた者の多くが、騎馬にまたがって軍服をつけていたもの、自動車に乗って巡査の制服をつけていたものなどであったことも、震災地にいたすべての人々の眼に映ったところの事実である。
 とにかく、あの当時「朝鮮人を殺せ、社会主義者を生かしておくな」という流言飛語が盛んに行なわれた。所々において、朝鮮人は群衆に切り殺され、兵隊によって銃殺された。平沢君ら十一名は、ただ社会主義者だという理由だけで、真っ裸にして突き殺され、首をちょん切られた。
 なぜ僕が首を切り落とされたことまで知っているかというと、その虐殺された平沢君の首と胴体の離れた姿が、偶然にも、当時ある人の撮った写真の中から発見されたのである。
 しかして、十六日には、わが大杉夫妻および六歳の甥の宗坊が憲兵隊本部に連れ行かれ、諸君の知らるるとおりの残虐きわまる殺され方をしたのである。
 また、ある社会主義者の宅は銃剣を着けた軍隊に襲われ、ある者の家は武装した青年団に襲われた。巣鴨警察に検束された同志の中の四名は、道場や広庭に引き出されて、柔道の手で投げ飛ばされ、竹刀、厚板などで乱打され、幾度か気絶さされた。
 わが労働運動社は、九月一日から七日までの間、ただ一度二升の玄米を分配されたのみで、それ以外、一切の食料品の分配を町内青年団からこばまれた。そして七日に一斉に駒込署に検束され、僕の如きは四十度近い熱で病臥しているのを、布団のまま留置場にかつぎ込まれた。
 かくのごとき暴虐! これに対する悲憤! それが凝って、もって今回の復讐となったのである。が、その数多い暴虐の中においても、特に、わが大杉夫妻、および気の毒でたまらない、いたいけな宗坊の虐殺に対する悲憤が、もっとも強く僕の心を動かしたことはもちろんである。>

 虐殺された大杉夫妻、すなわち大杉栄伊藤野枝には五人の幼い子らがいた。一人は養子に出されていたが、四人はあとに残された。憲兵大尉甘粕らは大杉夫妻と甥の橘宗一を扼殺し、裸にして古井戸に投げ込み犯行を隠そうとした。事件が発覚し遺体は井戸から引き上げられ、解剖の後荼毘に付され、遺骨は遺族関係者に引き渡された。
 久太郎の胸に大杉らを殺したものたちへの復讐の念が怒りと共にたぎり、同時に流言に踊らされ、自警団をつくって朝鮮人、中国人を殺した大衆への怒りもくすぶりはじめた。そして一年後の震災記念日の決行となったのであった。