人間と社会を考える授業

 教科書に登場する教材は、元の文章が長文の場合、その断片に過ぎない。高校現代文に漱石の「こころ」が出てくるが、これはもちろん一部分である。それを読んで全文を読んでみようと思えればいいが、多くの生徒は部分だけで終わってしまう。
 灘高校の老教師、橋本さんが、中勘助の自伝的小説「銀の匙」全文を教材にしたという授業が有名になったが、むしろそういう授業がもっとあってよい。全文読破する授業は、人間や社会を考え、認識を深めるものになる。
 「徒然草」も、教科書にとられている部分以外にも、おもしろい文章がある。
 筆者の吉田兼好の没年には異説があるが、1352年以降まで生きたようで、そうすると68歳の寿命だったらしい。「徒然草」にも生徒に読ませて、人間や社会を考えさせたい文章がある。佐藤春夫の現代語訳で、三つの段の文章を抜き出してみよう。

    第百八十七
 <一切の技術の道において、その専門家が、たとい上手ではなくとも、上手な素人に比べて必ず優れているのは、油断なく慎重に、道をなおざりにしないということであるが、素人はわがまま勝手にふるまう。これが素人と専門家との違う点である。
 技術の道に関することのみにかぎらず、日常の行動や心がまえにも、魯鈍に慎重なのは得のもとである。
 巧妙に任せて法式を無視するのは失敗のもとになる。>

    第百八十九
 <今日はあることをしようと思っているのに、別の急ぎの用が出て来て、それにまぎれて暮らし、待つ人は故障があって来ず、待たない人が来る。頼みにしていたことは不調で、思いがけないことだけが成立した。心配していたことはわけなくできて、なんでもないと思っていたことが、たいそう骨が折れる。
 一日一日の過ぎていくのも予想通りにはならない。一年もそのとおり、一生もまたそうである。
 予定の大部分は、みな違ってしまうかと思うと、必ずしも違わないものも出てくる。だから、いよいよ物事は決めてかかれないのである。
 「不定」と考えておきさえしたら、これが間違いのない真実である。>

    第百九十四
 <達人たるものが人を見る眼識は少しも見当違いのあってならないものである。たとえば、ある人が世に対して虚言(うそ)を構えて人をあざむこうと計画する場合、それを正直に、事実と信じて、その人の言うがままにだまされる人がいる。
 また、あまりに深く虚言を信じすぎて、その上に輪をかけた虚言を付け加える人もいる。
 またなんとも思わないで、気にも留めぬ人もいる。
 また、幾分か疑念をはさんで、本当にするでもなく、しないでもなく、考えてみている人もいる。
 また、本当とは受け付けないが、人の言うことだからそんなこともあるかもしれないくらいに思って、そのままにしておく人もある。
 また、さまざまに推察して、万事のみこんだようなふうに、賢者ぶってうなずいて、微笑してはいるが、その実、いっこうに真相を知らないでいる人もいる。
 また、推測して、なるほどそうかと気がついていながら、まだ間違いがあるかもしれないと疑いを抱いている人もいる。
 また、格別大したことでもないさ、とばかり、手を打って笑っている人もいる。
 また、虚言とよく知っていながら、分かっているとは言わないで、気付かぬ人同然の態度で過ごす人もいる。
 また、虚言と知りぬいて、虚言を構えた人と同じ心持からそれに力を合わせ、それを助長する人もある。無知な人間が集まってする、取るに足りない虚言でさえも、種を知ってさえいれば、このように人さまざまの個性が言葉になり表情になりして現れるのがわかるものなのである。
まして明達の士が、われわれのように惑っている者を見抜くのはわけもないこと、あたかも手のひらの上のものを見るぐらいのことだろう。さればと言って、こんな推測をもって深遠な仏法の方便などにまで準じて論じおよぶことはよくない。>