初霜、朝霧、牛久ワイン


 今朝、初霜が降りていた。稲刈り後の田んぼに散らばる稲ワラが白い。畦の枯れ草も白い。おまけに朝霧がたちこめ視界はきかず、こういう日は特に大糸線を走る列車の警笛がよく聞こえる。鳥たちの姿は見えない。
 人影のない白一色の世界、学生山岳部時代によく歌った古いロシア民謡をうたいながら歩く。誰も見ていない。誰も聞いていない。遠慮はいらない。
 「川面(かわも)霧たち 野辺に流れて 連なる山は おお ジグーリの峰よ」
 バスの低音を響かせ大きな声で歌いながらランと行くと、霧の中にぼんやり人影が映った。あの人は、霧の中で、どこのだれが歌っているのか分からない歌声を聴いているのだと思いながら行く。
 霧の中から姿を現す桜の木が辺り一面落ち葉している。柿の木も、複雑微妙な色模様の紅葉を道一面に撒き散らしている。
 山のほうへ歩く。タンポポの綿毛がゆれている。飼料用トウモロコシがまだ刈り取られず、人間の背丈より高く密生して茂っているが、葉に枯れ色が混じってきている。諏訪神社近くまで上がってくると、霧は地表に残り、鎮守の森の上部から上が晴れて、常念山脈が姿を現した。山に日が当たっている。田んぼは霧の布団で覆われた。まだ地面に日が差さない。
 神社を越えて、道を上り、気がついたら霧がすっかり晴れていた。野を見下ろすと、霧はまだ安曇野の底部にたゆたう。山は紅葉が始まっていた。日が射し始める。体が温かくなった。日輪の昇る速度は速く、もうあんなところにと視線を上に向けて驚く。
 タマネギの苗、150本を植えた。あと50本残っている。ニンニクの球根はもうどこの種苗店でも売り切れてしまった。農協の店に聞いてみると、取り寄せできるということで、予約をしてきた。
 種まき、苗植えには適期というのがある。農事暦をしっかり準備していないと、適期を逃してしまう。その野菜の種まき、植え付けにいちばん適した時期は、気がつけば過ぎ去っていたということになる。おそらく10日ほど前までにニンニクは植えつけなければならなった。あれやこれや、いろんなことがあって、それにまぎれて遅れてしまった。ときどき苗を売る店をのぞいたいたならば、農事の移り変わりを見逃すこともなかったものを。
 昨日、ソウゾウ君に電話を入れた。ぼくの借りている畑の一部を使っている彼は、夏の作物を育てた後に何も植えていない。
 「今植える最高の野菜はタマネギだよ。植えたらどう? 昨日農協に安くて元気な苗を売っていたよ。それも早く行かないと売り切れてしまうよ」
と電話で伝えた。
 朝霧の日はよく晴れる。今日も秋晴れ、昼間の気温がぐんぐん上がった。
 チンさんの日本語特別指導を社会福祉協議会の一室で午前中行なった。朝霧の中を大声で歌いながら歩いた話をする。
 「霧の中で、こんな風にね、歌って歩きました」
と声に出して歌う。チンさんは笑い出した。
 「そんな人はいません。中国でも、歌いながら歩く人はいません」
と言う。
 「いいえ、中国でも歌いながら歩く人はいますよ」
とぼくも大きな声で笑った。

 小包がとどいた。誰からだろう、見るとミツコさんからだ。淀川中学校2期生だった彼女が、40年ぶりに同級生の情報のなかにひょっこり現れてきたのは、今年になってからだった。きっかけは同窓会だった。その同窓会には彼女は出席できなかったが、彼女の手紙はぼくのところにとどいた。ミツコさんは今は悠々自適の生活だがそれまでは国家公務員として重要な職務にたずさわってきた。
 中学2年のとき彼女は、父の転勤で転校して行った。彼女はぼくが顧問をしていた学校新聞部の部員だった。新設校3年目、淀川中学新聞はコンクールに入賞した。
 同じ新聞部に今は文芸評論家のカイサブロウ君がいた。
 カイサブロウ君とミツコさんの50年ぶりのデイトが東京銀座で実現したのは数日前だった。
 来年春、二人は安曇野にやってくる。
 贈られてきたワインを夕食でいただいた。山形の葡萄100パーセントで造られている牛久ワインは香り芳しく、最高の味わいだった。