岩波茂雄と中国

 武漢大学の図書館にどうして膨大な日本の書籍があったのか、それも岩波書店からの寄贈本が大量であったことのいきさつが、今分かった。
その図書館は一つの独立したビルであった。6階が日本の書籍の書庫になっていた。キャンパスは広大な森であり、その中央部の木立の中に図書館は建っている。
 初めて日本の書籍の部屋に入ったとき、書架が幾列にも並んでおり、分類されて並べられている本の多さに驚嘆した。圧倒的な数が岩波書店から寄贈されたものだった。岩波書店が新しい本を出版すると、ここに必ず贈られて来る。学術・文化、全集、単行本、日本の歴史的な著作が教師や学生たちの自由な閲覧に供されている。それは、ぼくが日本語教師として赴任した2002年のことだった。中国にいながら、ぼくは日本の本を自由に借りて読むことができた。ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」もここで借りて読んだ。
 どうして岩波書店はこのような膨大な出版書籍を贈呈してきたのだろうか。その疑問を解く鍵が、安倍能成の「岩波茂雄伝」のなかにあった。
 昭和12年(1937)の日中戦争勃発前から岩波茂雄は、中国の代表的な大学に岩波書店出版の書籍を送ろうと考えていた。その年の8月、「魯迅文学奨金」に岩波は金一千円を寄付し、つづいて書籍の贈呈に移ろうとしたときに盧溝橋事件が起こり、日中は戦争になだれこんだ。書物は送ることができなくなった。
 「日清日露の戦勝に酔い、国民はいつしか不当なる自負に精神をむしばまれ、他に学ぶの謙虚を失った。ことに満州事変を契機とする軍閥の台頭以来、国内の情勢は全くこの大方針に背馳する方向に驀進し、国家の存亡にかかわるごとき重大なる国策までも、国民より遊離せる軍閥官僚の掌中に帰した。
 ‥‥年来日華親善を志していた私は、大義名分なき満州事変にも支那事変にも、もとより絶対反対であった。太平洋戦争の勃発に際しても、心中憂憤を禁じえなかった。そのために自由主義者と呼ばれ、非戦論者とされ、時には国賊とまで誹謗され、自己の職域をも奪われんとした。それにもかかわらず大勢に抗しえざりしは、結局私に勇気がなかったためである。私と同感の士はおそらく全国に何百万か存していたに相違ない。もしその中の数十人が敢然決起し、あたかも若き学徒が特攻隊員となって敵機敵艦に体当たりを敢行したごとく、死を決して主戦論者に反抗したならば、あるいは名分なき戦争も未然に食い止めえたかもしれず、たとえそれが不可能であっても、少なくとも祖国をここに至らしめず時局を収拾しえたかとも思われる。」
 これは岩波書店の月刊誌「世界」の創刊に際して、岩波の書いた文章の一部である。戦後すぐに、岩波書店は雑誌「世界」を刊行する。そして終戦翌年に岩波は死んだ。岩波没後、彼の遺志は実行に移された。昭和22年(1947)、中国代表部、張鳳挙、謝南光を通じて、北京大学武漢大学、中山大学など五大学に、岩波書店の全書籍205種、1025冊を寄贈し、人民共和国になってからも新しく発刊される書籍を送り続けた。昭和22年の書籍には岩波茂雄の遺志が添えられた。
 「中国と日本との永遠の親善を祈念して、生涯変わらなかった故岩波茂雄の遺志にもとづくものであって、幸いにして貴大学がこれを嘉納せらるるならば、故人の遺業を継承せる小輩の欣喜これに過ぐるものはありません。」
 日中戦争の間、岩波は深く心を痛めた。戦場となった中国の田園は荒廃し、都市は廃墟となった。岩波は、即時撤兵、罪を中国に謝すべき旨を説いた。それゆえ岩波への弾圧は絶えることなく、しばしば身辺に危機が及ぶことがあった。添えられた書面にはそのことがるるつづられている。戦後すぐの廃墟の日本である。そして次の言葉でしめくくられている。
 「戦後の疲弊その極に達し、印刷出版の事業もいまだ旧に復せず、用紙装丁の粗悪、高覧に堪えざるをおそれますが、願わくは故人の微衷に諒察を垂れ、この献芹を快く嘉納せられんことを。なおこの献本は今後も継続し、逐次新刊の図書を献呈してまいりたいと考えております」
ぼくが武漢大学で見た、そして幾冊か借りて、キャンパスのなかの山の麓にあるゲストハウスで読んだ岩波書店の豊かな書の海は、このような一人の人間の志から生まれた、歴史的な偉業であった。