小布施町には127軒のオープンガーデンがある


 自分の家の前に椅子を置いて、腰をかけているお年寄りがいる。何をするでもなく、通りを眺めている。中国の古い街でそういう姿を見ることがよくあった。漫然とどこを見るともなく、腰を下ろしている老人がいる一方、数人で囲碁か将棋かマージャンかをしている姿もしばしば目にした。住居の暮らしが、通りの暮らしに、つながっている。
 ところが、急速に発展してきた現代中国の都会は、住宅は厳重に閉鎖された個別の空間になってきた。コンクリート塀に囲まれたマンションへは、居住者以外の人は無断で入れない。個の生活を守るということでは、それが必要とされ求められてきたことなんだろうが、通りが「道路」という無機質の機能空間になってしまうと、歩く楽しみや味わいがない。
 日本では、自分の家の前に椅子を置いて、腰をかけているお年寄り見ることはない。お年寄りは家の中にいる。通りを見ていても、車が通るだけで、何の面白みもない。近所の子どもたちが遊んでいたり、人が歩いていたり、物売りが来たりした昔なら、日本でも通り際に床机を出して、座っている人がいた。ご近所の人とおしゃべりしている人がいた。夏なら夕涼みする人が何人もいた。道路に面した家々の座敷の内が、通りから見えた。しかし現代は住居と道路との間に厳然と断絶がある。家は道路という社会構造から隔離され、侵入を拒む。都市化が進んだ地方都市もそうなってきている。プライバシーを守ることが、外の社会や人や自然と精神が交流するパイプを断ち切ることになってしまった。
 そういう時代の流れの中で、家の庭を地域に開いているところがある。住民の意志がそれを行なっている。
 長野県北部の小布施町には町内に127軒のオープンガーデンがある。一般家庭やお店が庭を開放していて、「オープン」の札がかかっていたら、自由に入って庭を見て楽しむことができる。もちろん無料だ。必要なのは、住民の心に報いるマナーを身につけることだけ。「栗の小径」から入るオープンガーデンは町長の庭になるとのことだ。オープンガーデンの地図を持って街中を歩くと、なかなか凝った庭もあるし、玄関前の小さな庭もあり、これなら自分の家でもできると思う。だから127軒まで増えた。まだ増えそうだ。それぞれ庭造りを進めると、道作りも進む。道作りが進むと、歩くことが楽しい街になる。かくして街中に歩く文化が花開き、心優しい美しい街が生まれる。
 イギリスはオープンガーデンの先輩で、自分の庭の垣根や塀を低くし、道行く人が外からも眺められるようにしている家が多い。庭造りをしている住人と旅人やご近所の人が、会話も交わせる。
 「やあ、バラがきれいに咲きましたねえ」
 「ええ、このバラは昨年新しく植えたものですよ」
 会話は楽しい。このようなオープンガーデンは田園地帯や都会周辺の街のあちこちにある。さすがは「人間は自由な大地を歩く権利をもっている」というパブリックフットパスの思想を実践する国柄である。一人一ポンドを出して、庶民の力で歴史遺産や自然遺産を買い取って守っていくという、ナショナルトラスト運動の発祥国でのことだ。
 人間が暮らして楽しい街とは、人と人との交わりのある街、会話のある街。
 田舎町にもそこにふさわしい、オープンガーデンがあり、オープンカフェを作れないものか、と思う。おいしいコーヒーを飲んで、またぶらりと街歩きする。