地球市民という構想<新しい世界史>


「従来からの固定された歴史の見方を、いったん白紙にもどしてみるという姿勢」の大切さを羽田正が書いている。(「新しい世界史へ ――地球市民のための構想」岩波新書 2011)
「これまで日本や中国という『国家』を中心にした一国史歴史観にあまりに慣れ親しんできた。
国民国家史を寄せ集めた世界史ではなく、一体としての世界史を新しく構想する際には、国民国家史を相対化した過去の捉え方がどうしても必要になる。その意味で、海域世界という実験場を設定することには十分な意義がある。」
世界の見方の一つの転換である。
「日本列島、朝鮮半島、中国大陸に囲まれた東シナ海という海を中心に置いた空間を想定して説明しよう。かつてこの海では、しばしばジャンク船が使用された。この船が航行する範囲をひとつの空間として設定できるだろう。同様に、絹織物、高麗人参、銀など、この海とその周辺で取り引きされた個々の商品が流通した範囲も、ひとつの空間と考えることができる。また、海を越えて禅宗が流布した範囲、航海の神であるマソの信仰が広がった空間なども、ひとまとまりの空間である。醤油が使われる空間、箸が使用される空間などを想定することもできるだろう。ある一つの政治社会(清王朝江戸幕府など)の変容が海を越えてそれとは別の政治社会に影響を及ぼす範囲、キリスト教が禁止された空間、漢字で意思疎通がはかれる範囲などなど、一まとまりの空間を想定するための要素はいくらでもある。東シナ海を中央に置くとき、これらの空間は、すべてこの海の上に広がっているが、周縁部分がどのあたりに位置するかは空間によってさまざまである。」
羽田の論の一事例である。羽田は新しい世界史の見方を考えた。
「世界史の標準的な枠組みは、一つの土台の上で時とともにゆっくり変化してきたが、今や土台そのものの限界が露となり、現実の世界の動きと世界史の枠組みがうまく対応しなくなっている。現代世界は新しい世界史を必要としている。
(それは)地球主義の考え方にもとづく地球市民のための世界史である。『地球主義』とは何か。私たちの生活の舞台である地球を大切にし、現在地球上で生じている政治、経済、社会、環境などのさまざまな問題を地球市民の立場から解決していこうとする態度のことである。
世界は一つであり、人間は同じ地球で生活しているのだから、私たちはある国の国民であると同時に、地球社会の一員、すなわち地球市民でもあるということを強く意識するべきなのだ。私たちが世界全体の利害を考慮して行動するためには、世界を『私たちの日本と他者である諸外国』と見るのではなく、『私たちの地球』ととらえる世界認識が必要である。」
そうすると新しい世界史はどのような内容を備えるべきか。それは世界認識をはっきりと意識できる内容であらねばならない。
「世界中の人びとが、これが自分たちの過去だと思える世界史であることが大事である。自分と他者の区別を強調せず、どこの地域や国だけが中心になるのではなく、人間は地球上でともに生きているということが理解できる世界史、世界中の人々がつながりあって生きてきたことが分かる世界史が理想である。」
「しかし、地球社会の世界史を描くことは難しい。世界各地での国民を単位とする主権国家同士の争いが、生々しい記憶として人々の脳裏に刻み込まれている。国民国家の時代においては、国の歴史は国民の共有物である。植民地から独立した諸国の人々の多くは、かつての『暴政』を簡単に許すことができない。世界は一つだとのんきに言っている場合かと叱られるかもしれない。国民国家に強い帰属意識をもつ人々の立場に立って発言すれば、確かにそうである。
しかし、現代の私たちは、国民国家を絶対視し、その立場だけを重視していてすむわけではない。一方で自分の国への帰属意識を持ちながらも、他方では、同じ地球社会に住む共通の利害を持つ人間として地球市民の意識をも涵養せねばならない。この二つの意識のバランスが重要である。」

 侵略を受けた国で子どもたちに歴史を教えるとき、何があったかという事実は欠かせない。だが、それを教えられた子どもたちの心に刻み込まれたものが、報復に向かうのではなく、それを超える新たな歴史認識を生み出す教育であらねばならない。それはどんなものだろうか。
 農業の暮らしと文化、漁民の暮らしと文化などから、中国、朝鮮、日本のつながりを見る、そこからも掘り起こし、学びにつなげるものがありそうである。対立、争いを超える、市民から生まれる新しい実践である。