マイ カントリー


 記憶に残っている体験は、いつも何かを示唆する。記憶は未来を示唆する。
 1965年の夏、イラン高原の砂漠で野宿していた。砂漠といっても、いろいろあり、シリア砂漠の西部は人間の頭ほどの岩石ごろごろの砂漠で、イラクに入るとその石が小さくなっていた。イラン東部からパキスタンにつづく砂漠は細かい砂が空を飛び、昼間も曇りのようだった。
 その日、野宿したところはイラン高原の西部で、学校の運動場のような硬い土が地平線まで広がっている。周囲を見渡すと、ところどころにほんの少し土の盛り上がりがあり、そこへ行ってのぞくと、深い穴が大地に開いている。カナートと呼ばれる深井戸だった。一定の距離をおいて点々とあるカナートは地の底でつながれ、その地下水路が村や町に水を引いていたのだ。
 砂漠の夕暮れ、静寂の中のどこからか車の音が聞こえ、大型のアメリカ車がやってくるのが見えた。立ち上がって待ち受けていると、車の中から四人の男が出てきた。男たちは、この地方に住むイラクの部族のようだ。野宿している一団がいる。何者だろう、と彼らは好奇心で見にきたらしい。野宿者は日本人の若者であり、危険な人物たちではないと見てとると笑顔になった。こちらの一人が、日本から持ってきていた粉末ジュースを水に溶いて渡すと、うまそうに彼らは飲んだ。
「カム マイ カントリー. カム」
 男の一人が言う。
 「カントリー」は、「祖国、ふるさと、田舎」の意味だが、「マイ カントリー」と彼らが言うと、「俺たちの国に来い」の意味でこちらに伝わる。
「俺たちの国に来い、と言ってるぞ」
「行こう」
 言葉は通じない。しかし心は通じる。歓迎に応えて君たちの国に行くよというこちらの気持ちが通じると、車に乗ってきた四人は大喜びで、運転手以外はみんな屋根の上に上った。ぼくら日本人は車の座席に座った。車はアメリカのフォードだ。
砂漠はもう暗くなりかけていた。道なんかない。カントリーがどこにあるのか、方向も何もさっぱり分からない。ところが運転手は何もない砂漠のある方向に向かって、車のエンジンをふかした。猛烈なスピードで走る。
「どこへ行くんやあ」
 車は、大揺れに揺れながら走る。目の前のフロントガラスに脚が四本ぶらさがっている。屋根に上った三人の男は落ちないか、ぼくらはひやひやする。だが、このスピード、この揺れにも彼らはへっちゃらだった。
 どれだけ走ったのだろう。よく憶えていない。薄暗がりのなか、ライトに土の家が浮かびあがった。彼らの国にやってきたのだ。すべて土色だ。土まんじゅうのような丸い屋根がいくつもある。カントリーの周りにも土壁が取り巻いているようだ。案内されてひとつの土の家に入った。
「おう!」
 日本人の口から感嘆の声があがった。部屋の中にペルシャじゅうたんが敷いてある。
 言葉のまったく通じない二つの民族が輪になって座り、チャイをいただく。笑顔をかわす。ただそれだけだった。お土産に、粉末ジュースを渡した。
 帰り道は暗かった。空には無数の星が輝いていた。車は間違うことなく、野宿していた場所に送り届けてくれた。
 彼らは遊牧民ベドウィンではない。ベドウィンなら定住するカントリーをつくらない。当時ベドウィンは国境を自由に越えて遊牧していた。ベドウィンには国も国境も関係なかった。それらに拘束されないでずっと昔から暮らしてきた。
 ひょっとすると、この人たちは遊牧から定住に移った人たちだろうか。
 国家が生まれて国境が作られた。
 国境が作られたから国境紛争が起こるようになった。
 国民国家は、国民を守る義務を持つ。
 国民を守る義務のために隣国と領土で争う。
 国民は国を守るために隣国と戦う。
 愛国というエゴが暴走する。
 いつまで人間はこんなことを続けるのだろう。

 俺たちの「シルクロードの旅」、平和な時代の平和なカントリーだった。