政治家たちの姿


難癖をつける、いちゃもんをつける
「その目が気に食わない。」
「その言い方が腹立つ。」
対立関係にあると、相手に対して攻撃材料になるものを鵜の目鷹の目で探す。
そして言葉尻をつかまえる。
集団と集団の抗争になると、それがゲバルトにまで行ってしまうこともある。


傷つけてもいい理由なんてない。殺してもいい理由なんて、どこにもない。
それでも攻撃の舞台に身を置かれた人間どもは相手に打撃を与えることを目的化する。
抹殺することまで目的化する。
世界中で今も起こっているし、その歴史を日本も持っている。


批判と攻撃とは、次元が異なる。
本来批判は論理だ。
だが攻撃は批判を逸脱し、打撃を与えることに走る。


権力を伴うから政権と言う。
権力を獲得することを政治集団はめざし、政権を握るとそれを行使する。
60年安保闘争で樺美智子はその権力行使者の岸内閣の執行者警察の暴力によって殺されたし、成田三里塚空港反対闘争でも機動隊のガス銃で殺された人がいた。
司法権力は、まちがえば冤罪という暴力の行使者となり、その犠牲になった人びとがたくさんいた。
権力行使の極限は軍隊の出動となり、戦争までいく。
イラク戦争は、フセイン政権のもつ大量破壊兵器を口実としたが、結局それは存在せず、欺瞞だった。
日本はそこへ自衛隊を派遣した。
ブッシュ元大統領は今も、それでもイラク戦争大義はあったと主張する。
中国での天安門事件のとき、人民解放軍はデモ隊を銃撃して政権による弾圧者となった。
政治権力が、反体制を反逆者として暴力的に弾圧する国が今もある。


仙石官房長官の発言「自衛隊暴力装置である」は、それはそのとおり。
戦闘機を保有し、戦車を持ち、大砲、ロケット砲など、兵器による武力を行使すれば暴力となる。
日本の自衛隊は自衛のとき、武力を行使することもありうると、その範囲をめぐって論争もしてきた。
軍隊は平時は武力行使はしないが行使することもあるという装置である。
自衛隊員の名誉、プライドを傷つけたと、野党からの攻撃を受けて仙石さんは陳謝した。
しかし仙石さんはどういう考えでそのことを言ったのか、そこをまず聴くことが必要なのに、そこがそれ、対立の構図で、聴こうともせず、攻撃に走る野党のなかの武闘派。
いつものことながら、攻撃することに意欲的な政治家たちは、議論してその発言の中に含まれている真意を探り論点を深めることよりも、ダメージを与えることに熱中する。
けんかの構図だ。
謝罪という形で決着させ、相手側の汚点にすることで目的達成とする政治家からは、人々の願う政治は生まれてこない。
法務大臣の問題も、対立の構図の中で、あのような発言が生まれてきたのだろうと思う。
もともと軽率で、人格的にも首をかしげるような人物で、そこからあの発言となったのかもしれないが、じっくり観察すれば彼の発言が日本の政界に対する考えや批判が下地にあることが伺える。
それを単純に不適格者だとして打倒してしまえば、政治家と政治の問題は明らかにならないで終わってしまう。
何よりもその奥に潜むものを探るべきなのに、当事者も批判者もそれをしない。
「国会軽視」というなら、今までの政治の中に国会軽視は山のようにあるではないか。
それは総括しないのか。