貞子さんからの贈り物『賢治の手帳』


貞子さんから送られてきた小包を解いたら手帳が出てきた、黒い小さな手帳、
ほんにまあ、これがその手帳なのか、賢治の手帳だよ。
雨ニモマケズ」が書いてあった、あの手帳の複製。
添えられていた貞子さんの手紙に、
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の詩が書かれた手帳のレプリカを入れておきます。賢治さんが喜ぶような気がするので。」
と書かれていた。
後で、それは貞子さんが花巻の賢治の記念館で買ってきたものだと知った。
小学校教員をしてきた貞子さんは、賢治作品を教えるとき、子どもたちにこの手帳を見せたりしてきたが、今はこれをぼくに、と言う。


これはまあ、本物そのものだなあ。
手帳の裏表紙に、賢治が書いた、「Tseheikowsky」の万年筆らしい文字。
書きかけて途中でやめて、また書いて、つづりを確かめたのか、7回も書いている「Tseheikowsky」。
何のことだろう、口ずさんでいるうちに、チャイコフスキーが出てきた。
ははあ、チャイコフスキーだあ。
賢治はクラシック音楽が好きだったからな、自らチェロも弾いた。
その左に馬の蹄鉄の図が三つ。何を考えていたんだろう。
1ページめくると、何? 吉田? いや違った、そう見えたが、當の字を崩したもの、それが「吉田」に見えた。
當で始まって、仏に関係する16の漢字が並ぶ。
一瞬、その文字がぼくの文字そっくりに思え、さらにこの手帳は、ぼくの手帳のように思え、が、その錯覚が消えると、まさに賢治の手帳、賢治の文字。

「當知是処 即是道場 諸仏於此 得三菩提 諸仏於此 ‥‥」

経文の一節だ。
それにしてもこの雑な手帳の使い方も、ぼくの手帳の使い方に似ているなあ。
ぼくは手帳に整然と書き込むことが出来なかった。


あるページに、「昭和六年九月廿日、再び東京ニテ発熱」とあり、
上から部分的に判読しがたい文が、メモ的に重ね書きされ、
「南無妙法蓮華経」の文字の列がある。
さらに次のページに、4ページにまたがって、大きな文字で、

 「快楽も ほしからず
  名もほしからず
  いまはただ
  下賎の廃躯
  法華経に捧げ奉りて
  一塵のことも
  許されては
  父母の下僕になりて
  その億千の
  恩にも酬へ得ん
  病苦必死のねがひ
  この外になし」

と書きなぐっている。
手帳の罫線など関係なしに、メモを書くように、落書きするように、思いつくまま書かれた文字。
病床で記したのだ。

そして、次のページから始まる。
欄外に緑色の鉛筆の文字で、「11、3、」とあり、
雨ニモマケズ」が7ページに渡って書かれていた。
「南ニ死ニサウナ人アレバ シヅカニ行ッテ コハガラナクテモ イイトイヒ」
と書いて、「シヅカニ」を縦棒線で消している。
雨ニモマケズ」の次のページは「南無妙法蓮華経」の経文。
ページを繰ると、二重丸を付けた次の文章がある。

 「凡そ 栄誉ノアルトコロ 必ズ 苦禍ノ 因アリト 知レ」

前の「當知是処」で始まる経文は、
「諸仏が悟りを得、教えを説き、生死輪廻を超えたのは、まさに現実のこの世界なのであり、こここそ修行の道場なのだから、この現実から逃げ出してはいけない」という意味であることを今日知った。 


昭和六年九月、賢治は発熱し、そのころから手帳を付け出し、花巻に帰ってからも、重い病気に苦しみながら、
自分を救うにはどうしたらいいか、必死に生きた証が、この手帳にある。


賢治研究の山内修は、こんなことを書いている。
「直後に書かれた『病血熱すと雖も』に始まるメモを見ると、
『熱悩』によって自己内部の修羅がバッコする時こそ『格好の道場』であって、
その『修羅』をそのまま『仏国土』と化すのでなければならぬということが記されている。
こうした醜悪な現実にとどまり、それを転倒して、現実を変革しようとする祈りの姿勢が、
雨ニモマケズ』につながっている。」


賢治は、6月の東京での発熱後、11月まで、病床で書き付けた手帳だが、
復刻された記念品の手帳には収められていない詩がある。
この詩を以前読んだとき、胸にしみいる悲しみと賢治の愛の深さを感じた。
多くの賢治の詩集には掲載されていない。
賢治の一番下の妹の長女フジのための祈り。


        十月廿日

  この夜半おどろきさめ  耳をすまして西の階下を聴けば
  ああまたあの児が  咳しては泣き
  また咳しては泣いて居ります
  その母のしづかに教へ  なだめる声は
  合間合間に 絶えずきこえます
  また病ないみどりごの  声あげなくをも
  あの室は寒い室でございます  昼は日が射さず
  夜は風が床下から床板のすき間をくゞり
  昭和三年の十二月
  私があの室で急性肺炎になりましたとき
  新婚のあの子の父母は
  私にこの日照る広いじぶんらの室を与へ
  じぶんらはその暗い私の四月病んだ室へ
  入って行ったのです
  そしてその二月
  あの子はあすこで生まれました
  あの子は性女の子にしては性猛く心強く
  凡そ倒れたり落ちたり
  そんなことでは泣きませんでした
  私が去年から病やうやく癒へ
  朝顔を作り菊を作れば
  あの子もいっしょに水をやり
  また蕾ある枝もきったり 時にはいたしました
  この九月の末私はふたたび
  東京で病み
  向かふで骨にならうと覚悟してゐましたが
  こたびも父母の情けに帰って来れば
  あの子は門に立って笑って迎へ
  また障子から お久しぶりでごあんすと
  声をたえだえ叫びました
  ああいま熱とあえぎのために
  心をととのへるすべをしらず
  それでもいつかの晩は
  わがなあいもやと云って
  今夜はたゞたゞ ねむってゐましたが
  咳き泣くばかりでございます
  ああ大梵天王こよひはしたなくも
  こころみだれてあなたに訴へ奉ります
  あの子は三つではございますが
  直立して合掌し
  法華の首題も唱へました
  如何なる前世の非にもあれ
  ただかの病かの痛苦をば
  私にうつし賜はらんことを
  みまなこを
  ひらけばひらく
  あめつちに
  その7ぜつの
  かぎを得たまふ
  

賢治は、1933(昭和8)年、37歳で永眠。
手帳は、その翌年発表された。
賢治の弟、清六氏が、第一回宮沢賢治友の会に出席するために賢治の原稿を清書して茶色ズックの大トランクに詰め込んでいたとき、この手帳が発見され、そしてさらに遺書が発見された。