戦争の辛酸を身にも心にも刻み込み、
だから戦後、絶対的な反戦に徹して生きた良心の人がまたひとり逝った。
岡部伊都子さん、大阪生まれ、84歳だった。
岡部伊都子さんの最後の著書は「清らに生きる 伊都子の言葉」(藤原書店)。
「清ら」は「ちゅら」と読ませている。
「ちゅら」は、沖縄の言葉。
「清らに生きる 伊都子の言葉」は、これまでの著作133冊から、光る言葉を集め、
1ページに1言、ゆったり余白を残して掲載している。
「この戦争はまちがっている」
邦夫さん、よくぞ、この言葉をのこしてくれはりました。
あのだいじな言葉がなかったら、
わたしの生きている意味はあらしません。
(『遺言のつもりで ――伊都子一生 語り下ろし』(藤原書店)
「邦夫さん」は婚約者だった。この時のいきさつについて、『出会うこころ』(淡公社)のなかでこう記している。
「わたくしが二十歳、その人が二十二歳になろうとする一九四三年の二月、見習士官であった彼と婚約し、初めてわが部屋に二人だけになりました。
その時、短い時間の別れに覚悟を決めた人は言いました。
『この戦争はまちがってる、天皇陛下の為に死ぬのはいやだ。君や国の為なら喜んで死ぬが』と。
本気で真実思うことを語った彼へ、その思いを悟らずびっくりして、『わたしなら喜んで死ぬ』と返事したわたくし。
そんな非情なわたくしが、美しい紺絣の少年となって帰った彼を、三度も夢に見せてもらえたとは。
敗戦後、彼の母に届いた公報には、五月三十一日戦死、と記されていました。」
伊都子さんが、婚約者が帰ってくる夢を三度も見たのは、大阪大空襲の後、沖縄に米軍が上陸したころだった。
岡部伊都子さんは、
「私は、加害の女です。」
という自責の念を背負って生きた。
どうして、こういう加害をしてしまうような人間が生まれてきたのか、
どうして普通の人間をこういう加害をさせる人間にしてしまうのか、
を問い続けた。
「殺された魂は、限りなく今を生きている。」
という一文を掲載しているページがある。
その文の出所は、『朱い文箱から』(岩波書店)。
「おびただしい戦争犠牲者は、若人ばかりではない。自国、他国、とても数え切れぬ状況を、
どうしようもない、そのすごい散りいのち、殺された魂は、限りなく今を生きているような気がする。
美しい池で、重々の落葉が沈み、腐った葉の上に新しい落葉の幾重にも重なっているのを見て、
兄はどのあたりか、鐸三兄さんは、婚約者はどこかと思った、
おそらく、生きている者も生死浮遊の空間を、漂いつづけるのだろう。」
おびただしい戦争犠牲者の屍の上に、日本国憲法は生まれた。
岡部伊都子さんの、憲法への執念もすごいものがあった。
「全世界の戦争犠牲者に、もし霊があるならば、
敗戦後、日本が定めた憲法の第二章『戦争の放棄』を、
どんなにか共感をもって支持されているだろう。
この平和条項と、国民の平等、
思想、良心、信教の自由などは、はかり知れぬ血の河によって生まれ得たもの。
犠牲者の魂を生かすのは、これら人間としての理想を、
世界人類共通の指針とすることだと思う。」
(『加茂川のほとりで』毎日新聞社)
ひたすら真実に生きようとした岡部伊都子さん、だから今の日本と今の世界を心底憂えておられた。
「わたしはイラクのことにしてもな、
パレスチナ、イスラエル――ほんまのことはようわかりません。
なにがどこへどうなるやら――。
さっぱり、このおばあには、わからん。
あの戦争を経験してきたわたしとしては、もうぜったいに戦争は許せん。
そやのに、また行きよる、
またまた、あの人たちは、
どないしたらよろしいの、
ああ、
どないしたらええか、
教えてちょうだい。」
(『遺言のつもりで ――伊都子一生 語り下ろし』藤原書店)