競争の裏側の論理


      自然界から学ぶ


サルの生態を徹底してしらべつづけてきた学者、伊沢紘生は、
「競争の裏側の論理」という言い方をしている。
伊沢は、今西錦司伊谷純一郎に学んだ。
「すべてのものには、
それぞれ固有の価値があり、
そこに甲乙はない。
それを徹底的に教えてくれたのはサルだった。」


伊沢の研究は、サルから始まって、日本の歴史、
人類の過去をその生き様の本質にさかのぼって問う、
という広がりを見せる。


こんなことを語っている。
「生物の進化は、その誕生以来、
いかに競争を避けるかという論理のなかで展開されてきた。
それを生態学的に理論化したのが、
今西先生のすみわけ理論だと僕は理解しています。
競争の裏側の論理、それを生態学の理論に、そして生物進化学の理論になんとかしようとしたのが今西先生だったと思うんです。
すみわければ、競争しなくてすむじゃないですか。
共生(シンビオシス)もまさにそれなんです。
だから共生は、いま一般社会で使われているような『みんな仲よく』では決してないのです。
たとえば、寄生虫。最近の医学界では、
日本人に花粉症が増えた時期と、
戦後に寄生虫を徹底的に駆除し切った時期とがほぼ合う。
だから両者には深い因果関係があると、言われていますよね。
寄生虫は人間の腹の中で生活している。
宿主を殺しちゃったらどうしようもないわけだから、
人間の腹の中でうまいことやっているはずです。
一方、寄生虫は生きているから、排泄物を出す。
そんなものに人間の免疫機構がいちいち反応していたら、
人間の方もばてちゃうでしょう。
だから、できるだけそのような異物、毒物には反応しないという生理的訓練を自然に受けてしまう。
結果として、スギの花粉ぐらいが飛んできてもそんなものに反応しない、
という身体になっていった。
もし、医学界で言われ始めたことが正しければ、
寄生虫寄生虫じゃなくて、人間との共生虫と呼ばれるべきですよ。
いまの自然界ではまだ説明しきれない、
証明しきれない、そういうことやものって、たくさんあるんじゃないですか。」
「今西先生が最後に、現代の生物学主義を批判して、
『俺、生物学やーめた。』
と言って、新たに『自然学』をうちたてようとした。
その気持ちがいまやっと、何かわかるようになってきました。
『俺も、いまのいわゆるサル学はやーめた。』(笑)」


伊沢は、宮沢賢治の童話、「祭の晩」を例にあげて、
賢治の童話は、
縄文人弥生人、競争の論理と競争の裏側の論理がわからないと、
絶対に読めない、理解できないという。
普通で考えれば、
山男の欲しかった二串の団子の値段が10銭なら、
同じ10銭分の薪をもってくればそれでいい。
それは弥生人の価値観。
しかし、あの山男にとってあのとき食ったあの串団子は、
誰がなんと言おうと、山ほどかついできた薪と同価値だった。
すなわち個人に固有の価値。


なんで生物が今日のように多様化してきたか、
もし競争の論理で生物が進化していたなら、強いものが勝って支配していくわけで、むしろ多様性なんて生じていない。
多様性を支えているのは、無数の共生(シンビオシス)の存在である。


人間が、競争原理をふりかざすようになってから、
この多様性に変化が起きはじめた。


競争の論理と裏側の論理、
両方がありますねえ。
他人と比較する、評価する、競争する。
それがあるから進歩するという考えが広く行き渡っている。
競争は共通の土俵が設定されて行なわれる。
スキーのジャンプは同じスロープをしつらえる。
ラソンは同じ距離とコース。
経済は経済の土俵、
学校は学校の土俵、
政治の土俵。
それら無数の土俵とそこでの価値観が、
人間の観念、意識を拘束する。
同じ土俵ではない、土俵の外もあって、生き物は生きているのです。
そして、拘束から脱出しようとする意識もまた芽生えてくるのです。
私は、私の固有の行きかた、生きかたがあると。
固有の生き方でつながっていきましょうと。