戦争論 7

 

 

 「野火」「俘虜記」「レイテ戦記」など、兵士としての戦場体験を大岡昇平は書いた。

 「戦争」という語り口の著書がある。そこにこんなことを書いている。

 

 トルストイの「戦争と平和」は、ロシアが戦争に勝ったから書けた。私は負けた側から、戦争とは何かを書こうとした。

 

 戦場で思った。

この戦争は負け戦だ。どうせ殺される命なら、どうして戦争をやめさせることに命をかけられなかったのか、そういう思いが頭をかすめた。

 目前に死をひかえた自分はどういうふうに一夜を生きたか、その一夜がいかに奇怪なものだったか。

 自分は生きながらえて日本に帰った。マッカーサーが言った。「日本全体が強制収容所だったのだ」。

 

 中原中也は昔の友だちだったが、あまり読まなかった。けれど、昭和18年、いよいよ戦場に行かなければならなくなり、何気なく中原中也を読んだ。変に心にしみた。

 

   丘々は

   胸に手を当て

   退けり。

 

   夕陽は

   慈愛の色の

   金の色。

   

   かかる折しも我ありぬ

   幼児に踏まれし

   貝の肉。

 

   かかる折しも剛直の

   さあれゆかしきあきらめよ

   腕拱きながら歩み去る

 

 

 

 

 

 

 

戦争論 6

 

 <堀田善衛「若き日の詩人たちの肖像」から> 

 

 しばらくうとうとしていて、不意に鋭い汽笛の音で眼が覚めると、自分は明後日から、自分の家に帰るものではなくなるだと、気づかされた。

そうして、人間が自分の家へ帰るものではなくなるとなると、その先の方には何か凶暴な、まがまがしいようなものが、黒々と伏在するようになるらしい。

 「ははあ、これが戦争なんだな」

と思う。

 家へ帰り着いて、召集令状というものを見せつけられた。赤紙というだけのことはあって、へんに桃色がかった紙に印刷してある。

 つくづくと眺めてみて、「臨時召集令状」―― 

 臨時たあ何だ、人を招集しておいて臨時もないもんだ、無礼千万な、‥‥召集というからには天皇の名において発せられ、それで召されるのであってみれば、印刷ででも天皇の署名と印があるものだろう。そんなもの影も形もなく、「富山聯隊区司令部」とあるだけであった。生命までよこせというなら、それ相当の礼を尽くすべきものだろう。それは背筋が寒くなるほどに無礼なものだった。‥‥

 速達が来ていた。封を切ってみると原稿用紙一枚が入っていた。それに短い詩が書きつけてあった。

 

 

      応召の歌

  波よ お前を見ていると僕のようだ

  激しく打って行く

  ただ泡だけだ

  岩がある

  悲しい足音の砂原がある

  ああ 海を行こう

  ああ、山を行こう

 

 絶唱というのはこういうものだろうか。心臓の鼓動が速くなった。東北の寒い漁村の宿屋の囲炉裏に座って、「しばらくプルーストでも読んで」と言って別れた彼に、追い打ちをかけるように召集令状が来ていた。

 

    ☆  ☆  ☆

 

  ああ 海を行こう

  ああ、山を行こう

 ここから連想するのはあの歌。学徒出陣壮行会での悲壮な大合唱。

海行かば みずくかばね 山行かば 草むすかばね 大君の辺にこそ死なめ かえりみはせじ」

 

 

 

 

 

 

 

戦争論 5

 

 この時季、テレビでは戦争特集の番組が多く、あの吉田満の記した記録「戦艦大和ノ最期」のドキュメンタリーを、再び見た。

 

 満20歳、学徒出陣により海兵団に入団した吉田満は、予備少尉に任官、「戦艦大和」に乗艦した

 1945、敗戦間際、戦艦大和に沖縄への出動命令が下り、護衛の飛行機がすでに一機もない中、米艦船に埋め尽くされていた沖縄に向かい、待ち受けていた米軍機約1000機の猛攻撃を受けて沈没した。吉田は頭部に裂傷を負ったものの死を免れた。

 戦後、満身創痍の吉田はその体験を書いた。その戦記を読んだカトリック教会神父は、手書き写本を両手に抱きながら、「繰り返し声に出してよみました」と言った。吉田は「自分の苦衷を汲み、共に進んでくれる人に逢えた」と、それがキリスト教への入信のきっかけとなった。

 彼の書き残した「戦艦大和ノ最期」は、出版され、読者に大きな感動をもたらした。

僕もこの書を読み、今の子ども、生徒学生たちに読ませたい、必読の書であると思った。

 吉田満は述懐していた。

 「私はいまでも、ときおり奇妙な幻覚にとらわれることがある。それは、彼ら戦没学徒の亡霊が、戦後日本の上を、いま繁栄の頂点にある日本の街を、さ迷い歩いている光景である。
 彼らが身を以て守ろうとした『いじらしい子供たち』は今どのように成人したのか。日本の『清らかさ、高さ、尊さ、美しさ』は、戦後の世界にどんな花を咲かせたのか。それを見とどけなければ、彼らは死んでも死にきれない。
 彼らの亡霊は、いま何を見るか、商店で、学校で、家庭で、国会で、新聞記事で、何を見出すだろうか。戦争で死んだ時の自分と同じ年頃の青年男女を見た時、亡霊は何を考えるだろうか。戦火によごされた自分たちの青春にひきくらべ、今の青年たちが、無限の可能性を与えられ、しかもその恵まれた力を、戦争のためではなく、社会の発展のために、協力のために、建設のために役立てうることをしんから羨み、自分たちの分まで頑張ってほしいと、精一杯の声援を送るだろう。

 もしこの豊かな自由と平和と、それを支える繁栄と成長力とが、単に自己の利益中心に、快適な生活を守るためだけに費やされるならば、戦後の時代は、ひとかけらの人間らしさも与えられなかった戦時下の時代よりも、より不毛であり、不幸であると訴えるであろう。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ムクゲの花

 

 

今日も、庭のムクゲの花、

窓を開けるとお迎えしてくれる。

木全体に花をつけ、朝開き、夕方に落ちる一日花。

白花の樹は、すがすがしい。

紅花の樹は、あでやか。

まわりは白く、真ん中だけ紅いのもある。

生命力が強く、一本の木があると、その周囲に、土に落ちた種からだろうか、小さな苗があちこちに生える。

ムクゲの花期は長い。いつ頃から咲きだしたか、思い出せない。

毎日毎日、ムクゲの花に慰められる。

朝鮮語はムグンファだった。

 

ノリウツギはほかりと白い。

小花が集まって少し細長い球形になり、

この樹も、たくさんの花をつけて、

日ごと、ひっそりと輝いている。

 

ウクライナの戦場に、

どんな花が咲いているだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ランの一周忌

 

 

 ランの一周忌です。

 去年、暑い暑い日つづいたとき、ランは水も飲まず、玄関の土間に横たわり、静かに逝きました。16歳でした。

 庭の、樹々の茂るところに、ランを埋葬してやりました。

 お墓の上に、大きな木材で墓標をつくってやりました。

 その墓に、「ランよー」と声を掛けてやりました。

 ランは大分の直ちゃんのところに生まれた子犬をもらって、瀬戸内海フェリーに乗せて奈良の我が家に連れて帰り、

金剛山麓を毎日散歩しました。訓練の仕方が分からず、

ランは、引っ張らないで飼い主と同じスピードで歩く訓練がたいへんでした。

暑い夏の日、庭につながれたランは、自分で勝手に土に穴を掘り、その穴の中に入って休んでいました。

安曇野に引っ越してきてからは、訓練も受け、同速歩行もできるようになり、

烏川渓谷へ行くと、谷川に飛び込んで泳ぎました。

暑さでほてった体は、冷たい水でたちまち快適になりました。

山際でときどきサルの群れに出会いました。

ランはたちまち猟犬になって、興奮しました。

 

ランのいない今、野を歩く人の犬が、喜びを引き起こしてくれます。

先日、メイちゃんを見ました。白いラブラドールです。

ランがいなくなってから、メイちゃんと親しくなり、メイちゃんと友だちになりました。道で会うと、遊びます。

朝五時過ぎ、メイちゃんがご主人に連れられて、二百メートルほど向こうを歩いていきます。ぼくは手を振り上げました。

メイちゃんは僕を見つけ、立ち止まり、ちょこんとこちらを向いてお座りをしました。

ご主人は、会釈して、メイちゃんを促して去っていきました。

 

 

 

 

戦争論 4

 

 

 朝日新聞の8月12日、政治学者豊永郁子氏の寄稿文が一面全部に載っていた。

 タイトルは「ウクライナ 戦争と人権」

 見出しは、

   犠牲を問わぬ地上戦

   国際秩序のため容認

   正義はそこにあるか

 この原稿の最後は、次のような文章でしめくくられていた。

       ☆    ☆    ☆

 「最近よく考えるのは、プラハとパリの運命だ。

 中世以来つづく2都市は、科学、芸術、学問に秀でた美しい都であり、誰もが恋に落ちる。ともに第二次世界大戦の際、ナチスドイツの支配を受けた。

 プラハは、プラハ空爆の脅しにより、大統領がドイツへの併合に合意することによって、パリは、間近に迫るドイツ軍を前に、無防備都市宣言を行うことによって。

 (大戦末期に、ドイツの司令官が、ヒトラーのパリ破壊命令に従わなかったエピソードも有名だ。)

 両都市は、屈辱と引き換えに、大規模な破壊を免れた。

 プラハはその後、ソ連の支配にも耐え抜くことになる。

 これらの都市に滞在すると、過去の様々な時代の息づかいを感じ、破壊を免れた意義を実感する。同時に大勢の命と暮らしが守られた事実にも思いが至る。

 2都市に訪れた暗い時代にもやがて終わりが来た。だがその終わりもそれぞれの国が自力でもたらし得たものではない。とりわけチェコのような小国は、大国に翻弄され続け、冷戦の終結によってようやく自由を得る。

 プラハで滞在した下宿の女主人は、お茶の時間に、

 「共産主義時代、このテーブルで友だちと、タイプライターを打って地下出版していたのよ」

と、いたずらっぽく語った。モスクワ批判と教会史の本だったそうだ。

 私は彼女が、いつ果てるともわからない夜に、小さな希望の明かりを灯し続けていたことに深い感動を覚えた。

 

 

 

 

 

 

戦争論 3

 

 

 

 加藤陽子さんは、「歴史の誤用」というものを指摘していた。

 「政治的の重要な判断を下す人は、過去の出来事について、誤った評価や判断を導き出すことがいかに多いか。」

 アーネスト・メイは、アメリカのベトナム戦争について研究した。

「なぜこれほどまでにアメリカはベトナムに介入し、泥沼にはまってしまったのか」

 アメリカのベトナム戦争に対する政策は、アメリカの中でもっとも頭脳明晰で、優秀な人たちがたてたはず。メイは、三つの命題をまとめた。

 

 1、外交政策をたてるものは、歴史が教えてくれていると信じているものの影響を受ける。

 2、政策をつくるものは、歴史を誤用する。

 3、政策形成者は、そのつもりになれば、歴史を選択して用いることがある。

 

 その結果がアメリカの政策失敗だった。

 そこに第二次世界大戦後の「中国喪失」というアメリカの体験が関係している。それゆえに南北ベトナムに、自らの望む体制をつくらねばならないという歴史観固執が生まれた。

 

 今のウクライナの戦争では、ロシアによる歴史の誤用が著しい。