戦争論 2

 

 

 小学生のころ、友だちが、「日本は無条件降伏や」と言った。「無条件降伏って、なんや」、ぼくは聞いたが、だれも知らない。先生からも説明がなかった。

 1945年7月26日、アメリカ、イギリス、中国の出したポツダム宣言は、戦争終結の条件を示したものだった。その内容は、軍国主義者の永久除去、日本の領土のあり方などの13項目があった。

 日本はそれを黙殺した。

 原爆はすでにアメリカで、7月16日に最初の実験が行われ、甚大な被害をもたらすことが確認されていた。

 日本は、各地がすでに空爆されて焼け野が原になっているにもかかわらず、「ポツダム宣言黙殺、戦争邁進」を貫く。

ポツダム宣言を出すとき、どんな形で戦争を終結させるか、連合国側は考えた。

アメリカの歴史学者、アーネスト・メイは、アメリカ政府の意思決定にたずさわる人々が、歴史をいかに誤用したかを詳細に研究した。

アメリカは、第二次世界大戦終結条件は、日本、ドイツ、イタリアの無条件降伏であると、固執した。」

その方針が、原爆投下の現実化となっていった。日本政府もまた神国日本の妄想を国民に振りまきながら、原爆への道を黙許していったのだ。

 

 

 

 

 

戦争論 1

 

 

 ルソーが戦争論を書いていたのを知らなかった。加藤陽子(東大教授)の著書「それでも日本人は『戦争』を選んだ」(朝日出版社)で、加藤はこんなことを書いている。

 「戦争のもたらす根源的な問題は、ルソーが考えた問題でした。ルソーの論文は日本語訳がなかったこともあって、私はつい最近まで知らなかったのです。長谷部恭男の『憲法とは何か』(岩波書店)を読んで、まさに目からウロコが落ちるというほどの驚きと面白さを味わいました。」

 

長谷部は、ルソーの「戦争および戦争状態論」という論文に注目した。そこに言う。

 「戦争は国家と国家の関係において、主権や社会契約に対する攻撃、つまり敵対する国家の憲法に対する攻撃、というかたちをとる。」

 なるほど、アジア太平洋戦争に敗北し、アメリカ占領軍が日本を支配した時、その支配の仕方は、間接統治という形をとった。すなわち絶対君主制明治憲法を廃棄し、転換することを日本国民に求めたのだった。

 ふーん、ルソーという思想家はすごい人だ。18世紀の人が、19世紀、20世紀の戦争の本質を見通していたとは。

 ルソーは考えた。戦争というのは、常備兵が3割ぐらい殺傷されても終わらない。王が降参しても終わらない。戦争の最終的な目的は相手国が最も大切だと思っている社会の基本秩序、すなわち広い意味での憲法と呼んでいるものの変容を迫るものである。

それが1945年、日本で現れた。日本は太平洋戦争で無条件降伏し、アメリカは大日本帝国憲法の、

大日本帝国万世一系天皇、これを統治す」

すなわち日本の国のありかた、「国体」を変容し、新しい憲法へ転換することを日本国民に求めた。そして新しい日本の形が生まれ、戦後の変容がこの国をつくってきた。

アメリカの求めるもの、その元にあるのは、アメリ南北戦争であがなった深い傷の代償であった。

1863年リンカーンゲティスバーグで演説した。

「人民の、人民による、人民のための政治が、永久に地上から消え去ることがないように」。

 この思想のもとにルソーがいた。

 フランスの思想家、ルソーは、1712年生まれ、1778年に亡くなっている。

 

 

 

 

 

一つの歌

 

 

 2002年、加美中学で教えた武田君が、ぼくが中国武漢大学に赴任するときに一枚のCDを贈ってくれた。それは当時、彼がファンで追っかけをしていた長渕剛の歌う「静かなるアフガン」のCDだった。

 ぼくはそのCDを武漢大学日本語科の授業で使った。CDデッキは町の電気店で買ってきていた。

 教卓に置いたデッキから曲が流れ始めた。学生たちはデッキを見つめ、耳を澄ましていた。

 

  海の向こうじゃ 戦争がおっぱじまった

  人が人を殺し合っている‥‥

 

 長渕剛のギターと声、学生たちの表情は引き締まった。ぼくの胸はふくれあがり、涙が出てきた。顔を見られないように急いで黒板の方に向き直った。だが、学生たちはぼくの表情をとらえていた。

 長渕剛は歌う。

 

  ほら また 戦争かい

  ほら また 戦争かい

  戦争に人道(みち)など ありゃあしねえ

  戦争に 正義もくそも ありゃあしねえ 

  日の丸と星条旗に ぼくは尋ねてみたい

  戦争とカネは どうしても必要ですか 

  ヒロシマナガサキが吠えている

  もういやだと 泣き叫んでいる

  ‥‥

  ああ、早く アフガンの大地に

  平和と緑よ もどってくれ

  ‥‥

  ぼくは祈る 静かなるアフガンの大地

  ぼくは祈る 静かなるアフガンの大地

 

 

 学生たちの眼にも涙があった。

 

 「そのCDを、貸してくれませんか」

 何人かの学生から声がかかった。

 

 

 

 

 

 

昔の仲間からの手紙 2

 

 

  あの遠き日々、矢田南中学の同僚、教育研究サークル「寺子屋」の仲間であった、障害児教育や学校演劇の脚本家で活躍した 森田博さん。

 あのころ博さんは、学校にもってきたフィッシャーディースカウの独唱する「冬の旅」のレコードを職員室で、みんなに聞かせてくれて、

 「私は家で毎晩これを聴いています」

と言った。このことは小説「夕映えのなかに」にも書いた。

 ぼくが教職を退職した数年後、博さんの手紙が届いた。

 彼の詩が書かれていた。

 

 

        夏の岬

 

  根室でジャンパーを買ったが

  ハナミズが出る

  水平線にむかってあるいていくと

  よびもどせ 北方領土

  看板の赤い字が目にしみた

  ロシアのお人形(カチューシャ)はいかが

  ロシアのコカ・コーラ クワスはいかが

  売店のマイクにさそわれて

  ぼくは ホタテ貝の刺身をたのみ

  カップ酒を立ち飲みしながら

  ゆっくり海を見る

  クシャミをしながら 歯舞 色丹

  望遠鏡をのぞいた

  日本語のうまいロシア人に土産をすすめられ

  ちいさな木彫の鳥を買った

  足を引っ張ると

  鳥は羽をバタバタさせて あえぐ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昔の仲間からの手紙

 

 

    二十数年前の、「学育研究会」の熱心な仲間であり小学校教員だった東京の雅実さんから、心温まる手紙をいただいた。

 

 「なつかしいです。やっと分厚い小説『夕映えのなかに』を読み切りました。生徒とのすごい生き様を感じながら読みました。

 私は小学校教員で、中学とはずいぶん違いますが、私はクラスのボスになり、子どもと一緒に遊び、たばねながら、めちゃくちゃ好き勝手なことをしていました。先頭に立って悪ふざけをしていました。‥‥

 四十代のころ、斎藤喜博の教授学研究会に入り、瑞穂第三小学校で六年間の全国公開授業をしました。島小、境東小、退職後全国の小学校を、斎藤喜博は授業行脚されました。

 学校とは何ぞや、その学びは私の教職人生の糧となっています。 

 それから林竹二も、むさぼるように読み、写真集も買いました。自由の森学園も何度か公開授業を観ました。雑誌『ひと』を愛読し、板倉さんの仮説実験授業や作文の会に参加し、賢治の作品を劇化し、光太郎の最後の住まいも尋ねました。

 私も授業でつかった木下順二の『あとかくしの雪』への想いは強いです。

 吉田さんと同じような体験をしていたんですね。

 私は秋田の生まれで、高校までは百姓の子として秋田に居ました。高校卒業後上京して夜学で学び、だからなのか賢治、光太郎、啄木が好きです。

 今私は、母の介護の毎日です。母は一人でできることは少ないけれど、生きる力を持っており、みんなのお世話で生かされています。いずれは自分も通っていく道です。

 この暑さ、夏、コロナを乗り切りましょう。」

 

 ありがとう、なつかしい雅実さん。

 

 

 

 

 

 

今オレたちは何をしているのか

 

 

 

 1965年2月に、アメリカ軍が北ベトナムへの爆撃を開始して始まったベトナム戦争。今のロシアによるウクライナ侵攻のニュースを見るにつけ、あの頃の反戦運動の大きな高まりを思い出す。

 飯島二郎は書いていた。

 「アメリカ軍は宣戦布告無しに、北ベトナムに、しかも戦場でない都会地に爆撃を始めたことに、私はおさえがたい怒りを感じた。

 私はおよそ政治運動というものをしたことがなかった。だからその怒りをどのようにして発表したらいいのかまったく分からなかった。

 京大人文研の若い友人の、抗議集会をやるから発起人に加われという誘いを受け、私はそれに応じた。私は一回限りのつもりであった。ところが北爆はますます苛烈になった。抗議したものとしてやめるわけにはいかなかった。

 毎月第一月曜日の午後六時に京都市役所前に集まって、デモをする。一週間前にデモの申請を警察署にする。

 このデモは、1973年4月まで、8年間続いた。私は、海外出張で5、6回休んだが、80回以上はデモに参加して歩いている。私はデモの一週間前から飯がまずくなり、デモの前日は必ず神経性の下痢をした。デモの先頭に立つのがはずかしかった。

 下痢は、デモが終わると、すぐに治る。デモが終わった後の気持ちは毎回さわやかだった。内気で臆病な自分のようなものでも、ルカ伝10章の、イエスの言葉『強盗に、襲われて倒れている人がいたら、その人の前を通り過ぎるな』に従って行動できたと感じるからだ。

 それでも、京都べ平連の運動を始めて一、二年の間は、研究の時間をとられることがひじょうに苦痛であった。警察に抗議に行っても警察に言い負かされる。そのたびに自己嫌悪におちいった。

 私は一人で本を読み、論文を書き、バッハを聴き。山を歩いているほうが、はるかに楽しかった。」

 

 この文章は、黒川創の「鶴見俊輔伝」(新潮社)のなかにある。

 

 

 

 

 

 

教え子からの手紙 4

 

 

 

 小説「夕映えのなかに」のなかに書いた、重度の障害児ヒロシとサトシ、そのヒロシから卒業3年後にハガキが来ていた。書類を整理していて発見。

 1字が2センチほどの大きさ、ぶるぶるふるえて、ゆがんだ字。左上から右下に降りて、左に曲がり、さらに字が大きくなる。

 

   「本に書いてくれて、まいどおおきに。元気ハツラツ、

    僕もやっとこさ 運転免許がとれて、とれて、うれしかった。」

 

 つづいて5年後の年賀ハガキ。

   「今年 11月に 川原製本紙工に就職できた」

 

 驚くべき報せだった。体と知能の障害にもかかわらず、彼は挑戦し続けていた。

 だがそれから連絡が途絶えたままだ。いまどうしているだろう。

 今どうしているだろう。