吉野せい「鉛(なまり)の旅」 <1>

 

 

    「鉛の旅」というタイトルの短編は、日本の敗戦が色濃くなった頃、次々と軍に召集されていく農民の話である。

    先日、その話が「吉野せいが乗り合わせた兵士」というタイトルで、朝日新聞に掲載されていた。記事の筆者は政治学者・原武史、連載記事の「歴史のダイヤグラム」だった。

 私が吉野せいを読んだのは、1975年に出版された吉野せい作品集、「洟(はな)をたらした神」(彌生書房)でだった。吉野せいはその時すでに75歳。夫の三野混沌は詩人だったが四年前に亡くなっていた。二人は、阿武隈山脈の南麓の籔を開き、開墾して作物を作りながら、文学作品を書き、牧師をしていた詩人の山村暮鳥の感化を受けていた。

 詩人の草野心平は、「洟をたらした神」について、「70を越して、百姓をしながら書かれた衝撃的な文学である」と激賞した。

 この「洟をたらした神」のトップに収められた、「春」という作品を初めて読んだ時、最初の一行から惹きつけられた。それは次のような文章で始まっていた。

 「春ときくだけで、すぐ明るい軽いうす桃色を連想するのは、閉ざされた長い冬の間の、くすぶった灰色に飽き飽きして、のどにつまった重い空気をどっと吐き出し、ほっと目を開く、すぐにとび込んで欲しい反射の色です。」

 そうして鶏の話が展開し、読者を引き付ける。

 原武史が取り上げたのは、吉野せいの作品集に収められている、「鉛の旅」だった。それは、常磐線平駅(今のいわき駅)から始まる。46歳の母はひとり、会津若松の軍の練兵場へ、召集されて入営した息子ツトムに会いに行く。息子は一家の柱だった。

 断末魔の軍と政府は、兵を増員するためにあがきにあがき、徴兵年限を一年繰り上げ、そのためにツトムは甲種合格になったのだ。入営の日、父は現地までツトムを見送り、宿で枕を並べて寝た。だが、父は眠れなかった。息子ツトムは我が家の唯一の動力だった。

 入営から数日後、息子から検閲済みのハガキが来た。

 「さつまいもの、苗床踏み込みは、始めましたか。25℃から28℃の間、床温を守ってください。裏門でなら、ちょっとの間はお目にかかれそうです。」

 息子は父親よりも苗床づくりが上手だった。

 母は矢も楯もたまらず、生きているうちに会いたい思いに駆られ、赤飯のおむすび、ゆで卵、梅干し、などを用意して、息子に会いに列車に乗った。常磐東線の郡山ゆきの普通列車、苦労して手に入れた往復切符を握りしめて。その時、どっと湧きたつようにホームに駆け下りてくる一団があり、彼女の座った座席の窓の外で、円陣をつくった。まぎれもない出征兵士の「歓送」であった。円陣の中央に直立した出征兵士は、バネ仕掛けのように右手を耳近くにあてて、挙手の礼をした。発車時刻の迫る中、兵士の声が破れ太鼓をたたき割るように響き渡った。声は震えていた。

 「ぶちやぶってきます、敵を。アメリカのやつらを」

 それきり彼は絶句した。 

 一同は両手を上げ、バンザイを三唱した。エプロン姿の国防婦人会のたすきをかけた女たちは、日の丸の小旗を形だけ振った。みんなはあてどもない方向に眼を向け、哀調を含んだ「露営の歌」を歌った。

 出征兵士は車内に入り、座席に無言で腰を下ろした。 (つづく)