「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」

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 保育士でライターの、プレイディみかこの記録「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」を今読んでいる。

 みかこさんの家族はイギリスに住み、夫は大型ダンプの運転手、「荒れている地域」の元公営住宅地の「ヤバい」と言われている地区で生活し、名門カトリックの小学校から息子は「元底辺中学」に進学した。息子が「元底辺中学」を選んだ。どうして? いったい何に魅かれたのか。ここから実に考えさせられる展開となる。

 この本、日本の学校の教員、親たち、読むといいなあ。読んでほしいなあ。

 そのプレイディみかこが、昨日、新聞の「欧州季評」に記事を書いていた。この記事がまた大いに注目。

 

 人類学者のデヴィッド・グレーバーは主張する。

 コロナ禍のなかで、はっきりと浮かび上がってきたことがある。

 医療、教育、介護、保育など直接的に「他者をケアする仕事をしている人々」は「ケア階級」、バスの運転手、ゴミの収集をする作業員もこの階級。この「ケア階級」がいなければ社会は回らないのだ。

 「わたしたちは、わたしたちをほんとうにケアしているのはどんな人々なのかに気付いた。ヒトとしてのわたしたちは壊れやすい生物学的存在にすぎず、互いにケアしなければ死んでしまう。」

 この「ケア階級」の仕事と対峙するのは、「ブルジット・ジョブ」、どうでもいい仕事。

 英国の世論調査で実に37パーセントが、「自分の仕事は世の中に意義のある貢献をしていない」と回答した。

 みかこさんは述べる。

 「コロナの中で、『命か経済か』という奇妙な問いが生まれてしまったのも、現代の経済が大量の『ブルジッド、ジョブ』をつくりだすことによって回っているからだ。そのために病人を治療したり、生徒に教えたり、老人を世話したりする仕事は、経済とは別のもののように考えられてきた。

 どうでもよい仕事が経済の中心になれば、、経済そのものが『どうでもよい経済』になってしまう。」

 

 なるほど、同感。

 ところで教育については少し別の角度から考える。

「教える」、このことも真剣に考えなければ、一方通行の、教員から生徒への「どうでもいい仕事」になりかねない。「教えている」が、「教育ではない」。「育」がない。子どもへの「ケア」がない。子どもが自ら育つための「育てる」という心ある営みがなければ、教育ではない。

 「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」に出てくる元底辺中学校の話は、「知識の切り売り屋」、魂のこもらない「説明屋」の学校ではない。

 この本、教師たちに読んでほしい。