やがて逝く

 

 

 石垣りんが、「行く」という詩を書いている。老い先の短くなった人生に、響いてくる詩だ。

 

      行く

  木が

  何年も

  何十年も

  立ちつづけているということに

  驚嘆するまでに

  私は生きてきた。

  

  草が

  その薄く細い葉で

  立ちつづけているということに

  目を見張るまでに

  さらに何年ついやしたろう。

 

  木は

  木だから

  草は

  草だから

  認識の出発点は

  あのあたりだった。

  そこから

  すべてのこととすれ違ってきた。

  自分の行く先が

  見えそうなところまできて

  私があわてて立ち止まると

  風景に

  早く行け、と

  追い立てられた。

 

 

    私たちは、一人の社会人として生きている。「一人の自然人として生きている」という見方はしない。だが、人間という生物は、社会の中で生かされ、社会をつくると同時に、自然の摂理の中で生かされている「自然人」でもある。人間は、どんなに知恵をしぼっても、いつかは体が衰え、「死」を迎える。この自然の摂理が私も目前に迫って来て、自然の摂理をしみじみと実感する。

    ところで、今も世界で起きている戦争、これはいったい何なんだ。自然の摂理を破壊し、人の生を死に至らしめる戦争という化け物。

    朝日新聞の記事、「沖縄時評」の崎山多美さんの文章が、強烈に訴える。

    <沖縄タイムズ、琉球新報の両紙が、力のこもった企画を続けている。琉球新報は、3月20日から、80年前の沖縄戦を日めくり式で報道し続けた。記事は1945年3月21日の「硫黄島」から始まり、沖縄米軍上陸、チビチリガマ集団自決、ひめゆり学徒の悲惨などを追っていた。

    圧巻は、「命の証 刻む24万余」の記事で、「平和の礎(いしじ)」に刻まれた沖縄戦の死者24万2千567人の氏名を一人残らず新聞に掲載したのだ。国籍の区別なく、沖縄戦にかかわる、すべての死者の名だった、「平和の礎」は糸満市の「平和祈念公園」に建立されている。>

 

 

    我が家の庭に一匹のクモが巣をはっている。カマキリがいた。珍しくヘビが草むらをはっていた。どこかで生まれて、彼らはわが家の庭にやってきた。よく来たね。

    彼らは、この夏が過ぎれば、やがて命を終えていく。自然の摂理の中で、彼らもまた生きている。