鶴見俊輔伝を読んだ

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 鶴見俊輔伝(黒川創)を読んだ。500ページにもなる力作の伝記だった。昨年11月に出版されている。

 伝記の終わりの方に、2015年に亡くなった俊輔の最期のてんまつと、学者で姉の、鶴見和子の散骨のことが記されている。鶴見和子の死去は2006年7月、満88歳だった。俊輔は93歳。二人とも住まいは京都だった。

 和子の遺言は、「墓には入らず、遺骨は海に撒いてほしい」ということだった。そこで、「葬送の自由をすすめる会」と相談して、10月、和歌山の海で行われた。黒川は、次のように書いている。

 「小雨の中、小船は和歌山港を出て、うねりが高い海を南西の方角、紀伊水道に向かった。鶴見和子が研究した南方熊楠ゆかりの田辺湾、神島沖に続く海である。同行するのは鶴見俊輔・貞子夫妻と息子・太郎、妹の内山章子、その長女・友子だった。」

 

 『この辺りで』と声がかかり、水溶性の袋に入れた骨を海に投じ、その上に花びらを撒いた。船は大きく円を描いて一周し、花びらはずっと円の中心の海面で、ゆるやかに揺れていた。」

 

 この部分の文章は、俊輔の奥さんが書いたものだ。

 鶴見俊輔は、2015年7月に亡くなった。「自分が死んださいには、一か月間、これを伏せておくように」というメモを残していたから、公開を控えた。しかし、ジャーナリズムにそんなに長く隠しておくことなどできない。とりあえず、一週間後に記者会見することにした。

 俊輔は、自分が死んだときは、僧侶、神父や牧師を呼ばないでほしい、という遺言ものこしていた。戦争のとき、仏教もキリスト教も、宗教人は戦争の動きに加担した、自分はそのことを忘れていない、ということが理由だった。葬儀は、自宅で、簡素な「ご近所葬」を行うということが考えられていたが、もうそれも必要ないということになった。棺の中に、かつて60年安保闘争のとき、だれでも入れるデモを組織した「声なき声の会」のペナントを入れ、俊輔の好物だったコカコーラを紙コップに入れて棺の四隅に納めた。そして棺は火葬場に出発した。

 報道関係者の動きで、俊輔の死を隠すことが到底できない状態になり、4日後記者会見で発表する。

 鶴見俊輔の墓は、多摩霊園にある。母・愛子、父・祐輔、弟・直輔とともに眠る。

 

 小田実の散骨のことをこの前書いたが、小田はエーゲ海に眠る。鶴見和子紀州の海、鶴見和子小田実と、散骨時期は近い。海はすべてつながっている。