生徒を支える仕事

 

 

     高校の非常勤講師を務めていた頃、私は70代に入っていた。勤務校は南松本にあった。通信制と言いながら、実質は通学制だった。いつ登校してもいいし下校してもいい。制服はない。クラスもない。要するに高校卒の資格を取れるところとして、存在していた。数人の教員がいて、やって来た生徒に、マンツーマンで学習を支援する。

    私は生徒たちに、学校に来てよかったと思える時間をつくりたいと思った。在籍生徒は30人ほどだが、中には二十歳を過ぎている人もいた。

    N君を私は指導した。彼は小中学校時代、不登校で、今は高校卒年代を過ぎていた。高校資格をとるためにやってきたN君とはいろいろおしゃべりをした。彼の日常は人と会話することはきわめて少ない。この時がいちばん濃厚な会話の場になった。

    彼は私に質問した、

   「先生、昼ご飯食べたの?」

   「うん、食べたよ。奥さんがつくった弁当。」

   「いいなあ。」

   「えっ、N君は食べてないの?」

   聴いていくと、食事はいつもコンビニ弁当だという。お母さんは家にいるが食事を作ってくれない。夕食もコンビニ弁当を独りで食べるのだという。父は会社のセールスで、遠くの県へ出かけており、家にいる時は少ない。N君には親しい友達もいなかった。

    N君は週に1,2回来て、私が担当した。学習の半分が私との会話で、話が弾んだ。

 「背の高い木があって、その高さを知りたい。君ならどうする?」

    こんな質問を投げかけたりした。彼は次第に元気になった。将来への夢を追うようにもなった。

    三年間が過ぎて通信制の卒業式で、N君は答辞を読むことになった。私はその指導に当たった。彼の読む答辞は誇りに充ちていた。式場には彼の父母もいた。

    卒業生徒のなかに若い二人の土木職人もいた。彼らは二十歳を過ぎていたが、高卒の資格を取ると言い、いつも二人並んで勉強していた。彼らと私は社会の実態、大人の世界の会話をした。彼らも高校卒の資格をとって、卒業していった。

    小柄な女の子が通ってきた。他の子のいる教室では勉強できないと言うから、別室の小部屋で学習を支援した。いじめられたりして、小中学校はほとんど行っていない。私との会話も極めて口数が少ない。この子の心を開くにはどうしたらいいか。返事はなくとも、私はできるだけ話しかけた。国語の教科書に中島敦の「山月記」が載っていた。それを読むことにした。

    「朗読してごらん」

    彼女は, [できない]と首を横に振った。

    「じゃ、ぼくが読むからね」

    私の朗読を耳にしながら、彼女の眼はしっかりと、格調高い中島敦の文章を追っていた。長い文章だった。それがその日の彼女の収穫だった。

    卒業していったN君は、その後も、しばしば電話してきた..。その中に「ヘルプ」の電話が何回かあった。付き合っている女の子が、交際を断ってきた。執拗に何故だと問い続けて、彼女は警察に訴えた。N君は警察の取り調べを受け、私に電話をしてきた。私は警察に出かけて、彼の援助をした。

 その後も何度か危機があり、彼は自死も試みた。彼は夢が大きく、実現の可能性は無いという現実を超えらない。

 ここしばらく電話が無い。彼は今、元気に暮らしていることだろう。