精霊の声を聞く

michimasa19372009-01-08




朝、家を出た時は、安曇野には少し雪が積っていた。
道路は凍結していた。


列車は松本平から木曽路に入っていった。
ぼくは木曽谷の村々を眺めていた。
すると、いつものようにこみあげてくるものがある。
山に囲まれたこの狭い谷に、人はえんえんと住み続け、今もここで生涯を送る。
風雪に耐えて人を守ってきた家や大地は今も人を包み込んでいる。
その風景の底に潜む長くつづいてきたものへの感慨。
それはこの谷を通過するたびに湧いてくる思いだったが。


不意に胸に感じるものがあった。
地の精。
藪原を通過したときだったろうか。
目には見えないが、地の精を感じた。
大地に潜むもの。
一瞬のことだった。
不思議な感覚だった。


それからぼくは眠ってしまった。
眼が覚めたのは、南木曽を過ぎてからだった。
外界は次第に明るさを増していた。
中津川が来ると、北の国から南の国入ってきたと思った。
美濃路は南国だった。
ああ、ここは南の国だ。
そこにはそこの土地の神様がいる。
そう思った。


不思議な体験だった。


大地の精霊にもっとも近いのは、昔から子どもだった。
昔、子どもは精霊の声を聞いた。
風の精、
木の精、
大地の精、
森の精、
川の精。


子どもは人類の原型である、と言ったのは誰だったろう。
ロシアの詩人だ。
コルネィ。
小宮山量平がそのことを述べていた。
子どもは、教える対象ではなく、
未熟なひな鳥ではなく、
まったく完成された創造物、
それが子ども。
灰谷健次郎らが出していた子ども雑誌「きりん」の精神は、
「子どもは人類の原型である」ということだった。


子どもは、精霊の声を聞く。
子どもは、人類の原型である。
だから精霊の声を聞く。
人類は、大地から生まれた。


今や、人間の子どもは、精霊の声を聞けなくなった。
それは大人が生み出したもののせいだ。