家族の崩壊


      ラッキョ洗い


土つきラッキョを妻が買ってきた。
「皮むきするから手伝って。」
声をかけられてテーブルに着いた。
ラッキョがとれるこの時期に、一年間分を漬ける。
洗って薄皮をむき、
茎を伸ばす先端の細い部分を包丁で適当な長さに切り取る。
ひげ根の部分も少し切る。
白いラッキョのつやつやしたのが、
作業がはかどるにつれて、ざるに盛られていく。
「一人でやるより二人でやる方がずっと早いね。」
当たり前のことだが、はかどる仕事に実感がこもる。


手間の掛かるラッキョの皮むきなんかするより、
店で出来合いを買ってきたほうが便利だ。
だが、店で売られている商品のラッキョには、
家でつくるもののような、
ぱりっとした、しゃきっとした感覚はない。
味も違う。
去年は自分が畑で作ったラッキョだったが、
今年は畑がなくなり、ラッキョは買わなくてはならない。
せめて土のついたのをと、妻は掘りたてを買ってきた。


昔はこうして家族みんなで作業することがよくあった。
子どもの頃は、エンドウがとれると、
「エンドウご飯するから、皮むいて。」
母に言われて、子どもたちはぱりぱりと皮むきをした。
季節季節に、家族みんなでする仕事があり、
それが家族の生活を成り立たせた。
布団の綿打ちをしたら、洗った布団の布を広げ、
布団綿をその上において、中へくるむ仕事も母との共同作業だった。
母が毛糸を編むときや、縫い物をするときには、
かせ糸を巻き取る作業に、
子どもの両腕が使われた。
かせ糸の幅に広げた子どもの両腕から、
巻き取られる糸が繰り出されていった。
正月前には障子の張替え、
夏の大掃除になると畳干し、
子どもは子どもなりに一緒に作業に加わり、
共同作業を身につけていった。。


家族みんなで作業をすることがなくなり、
なんでも金で買ってくる世の中になって、
子どもは生活をみんなでつくっていく技も考えも、
感覚も身につけることなく、
大人になっていくようになった。
季節を感得し、暮らしを味わい、
自然の奥深さを感受する力が衰退した。
それは、家族の崩壊と重なっている。