雑が生きる地方にこそ

 

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「雑の思想」のなかで、文化人類学者の辻信一の語った次のこと、ぼくはウーンとうなった。過疎化が叫ばれ、地方の村落では消えかけているところが増えている。そこに地方消滅論が出てきた。

 「地方消滅論の主張は、合理主義を徹底させて、中央の原理を地域までもたらし、グローバル化で日本を覆うことにある。地方消滅=地方創生論こそ、グローバル化の最終段階、言わば仕上げだ。この地方消滅論に対して、地方に活路を見出す、地域からの再生こそが希望なのだという考えが出てきている。『人口のダム論』は、過疎の山村を切り捨て、中核都市に人々を集めること(ダム)で地域を維持しようとしている。コンパクトシティと呼ばれる効率的な都市に人々を集め、高層マンションに収容し、そうして理想的な消費者に仕立て上げていく。モデルは川崎市の武蔵小杉だ。高層ビル群と巨大ショッピングモールで成り立つ都市。これはアメリカの再現であり、韓国の『未来都市』の後追いだ。徹底的にサービスを民営化して、ゆりかごから墓場まで、つまり子育てから介護まで、グローバル産業に任せる。人々は基本的に労働と消費以外は何もしなくていい。せっせと大企業のために働き、その給料で、せっせと大企業の商品やサービスを買う。一挙手一投足がすべて経済市場につながっていて、効率的で、無駄がない。ロボットやドローンも活躍する。一種の理想郷である。TPPがめざすのも、農業を企業の手に渡すだけでなく、保険でも医療でも、グローバル大企業が支配する。それを進めている人たちは善意でやっている。

 アメリカの人類学者アシュレイ・モンタギューの『非人間化の時代』という著書がある。パブロフの犬みたいに、人間の心理や行動は操作できる、それがアメリカの思想的バックボーンだった。現代日本も、人々をパブロフの犬のようにみなして、合理的で経済効果のいい理想郷に向けて、忙しく動き始めているのではないか。

 これに対抗する思想の核が『雑』だ。

 人数が減っていても、活力のある町や村がある。市町村が統廃合され、『村』ではなくなった集落が、『私たちは村をつづけます』という宣言を出したりしている例がいっぱいある。ここにも『雑』の思想が息づいている。江戸時代の終わりには日本の人口は三千万人に過ぎないのに、六万以上の自立的な村落共同体があった。

 地方消滅論で人々を脅かしているのは、地方からの人口流出を促進し、荒廃させる政治をやってきた張本人たちだ。」

 大昔人間は、ここに住もうと決めたところに住みついて、何代にもわたって生活し、助け合い、子孫を残し、生きるすべを蓄えてきた。そこに支配する人が出てきて、支配の仕組みをつくり、人々を従わせた。その村が、現代になって、政治的に消滅させようとしている。その動きの中で、危機にある村人たちはどうすればいいか。辻信一は、昔の寄り合いみたいな形で、三日三晩ずっと話し合えば、そこから自治がよみがえってこないかと言う。古代のギリシアの民主主義をよみがえらせるのだ。 

 そこに宮沢賢治が登場してくる。賢治は、全生命体から無生物も含めたコミュニティを考えていた。……