「チェルノブイリの祈り 未来の物語」<4>

 

 「プロメテウスの罠」というドキュメンタリーの連載が朝日新聞で続いている。今日で1544回になる。福島原発事故後、事故の正体を追いつづけるこの記事に、すさまじい執念を感じる。プロメテウスは、ギリシア神話の英雄、天上の火を人間に与えてゼウスの怒りを買い、カフカスの山に鎖でつながれオオワシに肝臓を食われたが、ヘラクレスに助けられた。タイトル「プロメテウスの罠」は暗示的だ。
 この連載、いつ完結するか、完結すれば日本の「フクシマの祈り 未来の物語」になるかもしれない。
 「プロメテウスの罠」は6日前、「明るい未来」というタイトルの章に変わった。その第1回目の記事は、原発に依存した町の、例の看板の話から始まっている。イヌの写真が記事の真ん中にある。記事を要約する。
 「一枚の写真がある。ゴーストタウンと化した福島県双葉町。商店街の入り口に大きな看板が道をまたいで頭上に大きくかかっている。書かれている文字は『原子力 明るい未来の エネルギー』。その看板の下に柴犬が2匹いる。野犬になった飼い犬だ。緊急避難で置いていかざるを得なかった犬、そのうつろな目。
 大量被曝を覚悟し、事故直後に現地入りしたフォトジャーナリスト森住卓は、4月7日朝、この光景に遭遇しシャッターを切った。かつて取材したチェルノブイリ被災地でも、セミパラチンスクの核実験場でも、爆心地以外では振り切れることのなかった放射線測定器が、ピーッと鳴り何度も振り切れた。
 森住は思った。この看板を掲示した責任者は、その欺瞞に気づいていたのだろうか、この町では欺瞞を呑込むしかなかったのか。
 森住はそれから、その標語をつくったのは当時12歳の小学生だったことを知る。そして今は成人になったその標語の作者は、看板の撤去に反対していると聞く。森住は彼に会ってみたいと思った。
 当の標語の作者大沼勇治は避難先を転々としながら、ネット上で森住撮影の「犬と看板」の写真を見つけた。何度も何度も写真を見た大沼は、深い絶望感と罪の意識に襲われた。双葉町は、看板の撤去に動き始めていた。避難生活を続けていた大沼はそこから決意する。そして生き方を変えていく。」
 その翌日の記事は大沼の思いもかけない行動から始まっている。
 2015年12月21日、『原子力明るい未来のエネルギー』の看板が撤去されようとしていた。そこへ二人の男女が、防護服に身を固めて現れた。二人の手に掲げられていたボードには『撤去が復興?』『過去は消せず』と書かれていた。二人とは、大沼と彼の妻だった。
 大沼が報道陣に語り始める。
「復興と言うなら、この看板を残した上で復興してほしかった。原発事故の痛みを伝えつづけるためにも、残してほしかった。この場所で」。
 撤去作業は続けられた。ゴンドラに乗る作業員は文字板を順に取りはずしていった。続いて裏側のもう一つの標語『原子力 正しい理解で 豊かな暮らし』がはずされた。
 原発事故の教訓を語り継ぐ「負の遺産」として現場に永久保存すべきだという署名運動を大沼らははじめ、7千人の署名を集めた。町は「撤去はするが、保存する」と方針を転換した。 
 しかし三日目の記事では、さらに標語の取りつけられていた鉄板もはぎとられていく作業を見ることになる。
 四日目、五日目の記事。
 12歳のとき、大沼は標語の優秀賞を当時の町長から受け取った。大沼は、故郷の明るい未来を心の底から信じて疑わなかった。「原発との共存」をめざしていた町の光景には常にこの看板があった。表彰の2年前、チェルノブイリ原発事故が起きていた。しかし安全神話は信じつづけられた。大沼は、東京電力関係者を相手に、原発を意識した賃貸アパート経営で成功を重ねた。事業は拡大路線をたどる。そして運命の日がやってくる。震災が襲った。
 「原発が危ないから逃げろ」、東電関係者からの情報が職場に届く。妻は妊娠7カ月だった。車で原発の北の南相馬を目指した。しかし行くあても考えもない二人はまた双葉に舞い戻り、警官に注意され指示されてふたたび北西方向の川俣町に向かう。その方向が放射性雲の流れた方向だった。迷走して最後たどり着いたのは妻の実家のある会津若松だった。


 「チェルノブイリの祈り 未来の物語」から部分抜粋。

 ■イリーナ・キセリョワ(ジャーナリスト)
 私は極秘扱いの通達をたくさん持っています。あなたにすべてさしあげます。正直な本を書いてください。汚染された鶏肉の加工に関する通達があります。鶏肉加工工場では汚染領域で放射線元素と接触する時と同じ服装が求められていました。ゴム手袋、ゴムの上着、長靴などです。鶏肉が何キュリーなら塩水でゆで、ゆで水は下水にすて、肉はペーストやソーセージに加えるよう、また何キュリーなら、家畜用飼料の骨粉に加えるよう指示されています。こんなやりかたで肉の供出割り当て分が達成されたのです。汚染地の子牛はほかの地区に安く売られました。りっぱな刑事事件ですよ。
 途中で、一代の車に会いました。トラックがのろのろと走っていたんです。遺体を運ぶ葬列のようにゆっくりと。停車させました。運転しているのは青年。
「どうしたの、気分が悪いんじゃないの?」
「いえ、放射能の土を運んでいるのです」。
 この暑さ、このひどいほこり。
「あなた、正気じゃないわ。あなたはこれから結婚して子どもができるんじゃないの」
「でも、一往復で50ルーブル稼げるところがほかにありますか?」
 当時50ルーブルあればちゃんとしたスーツが買えました。青年は放射能のことよりも、割増金のことをたくさん聞かされたのです。命の値段という点からみれば、スズメの涙ほどの金の話を。……
 原子炉のそばで写真を撮るのは厳禁だった話は、もうお聞きになったでしょうね。カメラは取り上げられました。そこで勤務していた兵士は、アフガニスタンでされたように、出発前に身体検査をされました。写真や証拠品を一切持ち出させないために。TV関係者はフィルムを没収されました。どれほどのドキュメンタリー、証言が闇に葬られたことでしょう。科学にとっての損失、歴史にとっての損失です。


 ■ウラジーミル・イワノフ(党地区委員会 元第一書記)
 私が犯罪者だと言うのなら、私の孫はなぜ……。孫は病気なんです。娘はあの春出産し、私たちのところに娘たちが来たのは、事故が起きて二、三週間後のことでした。ヘリコプターが飛びまわり、軍用車がいた。妻が言う。「娘と孫を親戚に預けなくちゃ、ここからつれだしてちょうだい」。私は党地区委員会の第一書記でした。そんなことぜったいできん、と言いました。
「私が、自分の娘と生まれたばかりの孫をよそにつれていけば、住民はなんと思うかね。彼らの子どもはここに残っているんだ。」
 どろんをきめこもうとしたり、わが身を救おうとしている連中を、私は党地区委員会の指導部会議に呼びつけた。
「きみは共産主義者なのか、それともちがうのか」
 あなたは当初のことを話してほしいとおっしゃる。ベラルーシでは落ち着いていました。種まきのまっ最中でした。私は隠れなかった。農地や牧草地を駆けずり回っていました。耕され、種がまかれていた。
 お忘れになったんですか。チェルノブイリ以前は原子力は平和な働き手と呼ばれ、われわれは原子力時代に生きていることを誇りに思っていたじゃありませんか。原子力の恐怖は記憶にありません。
 放射能について私の知っていることといえば、民間防衛講習会で習ったことだけです。牛乳のセシウムや、ストロンチウムの話はそこじゃ一言も聞かなかった。
 われわれはセシウム入りの牛乳を牛乳工場に運んだんです。肉は供出していた。40キュリーの牧草を刈り取っていた。供出割り当て分を達成しようとしていたんです。私は無理やり取りたてたんです。だれもわれわれの割り当て分を撤回してくれませんでしたから。……
 何か変だと感じるようになりました。われわれは核物理学研究所と契約し、土地の検査を依頼したんです。所員が牧草や黒土層をミンスクの研究所に持ち帰りました。そこで分析されます。電話がかかってきた。
「検査に出された土壌をひきとりに来てください」
「ご冗談を。ミンスクまで400キロもあるんですよ」
思わず受話器を落としそうになった。
「サンプルは通達に従って、放射性廃棄物埋設地に埋蔵しなければなりません。地下貯蔵庫です。」
 いいですか。われわれはこの土壌を耕し種を播き、この土壌の上で子どもたちが遊んでいるのです。われわれは牛乳や肉の供出割り当て分を出せと言われている。穀物からはアルコールをつくった。リンゴやナシ、サクランボはジュース用に回したんです。
 疎開です。もし誰かが空から見ていたら、第三次世界大戦が始まったと思ったでしょう。一つの村を疎開させ、次の村には前もって言っておきます。「一週間後には疎開だ」。
 その一週間の間、ずっと住民はワラを積み上げ、牧草を刈り、自家菜園で働き、薪割りしているんです。いつもの生活です。住民は何が起きているのか理解していない。一週間が過ぎ、彼らは軍用車で連れて行かれる。会議につぐ会議、出張につぐ出張、説教につぐ説教、不眠の夜。たいへんでした。
 あなたはお忘れなんですよ。当時、原子力発電所は、未来だったんです。われわれの未来だったのですよ。
 私は昔の人間なんです。犯罪者ではない。