心に残る年賀状


           反原発の集会



 今年黒豆がたくさん採れた。耕作放棄地を活かす取り組みで土地をただで借りることができ、3畝ほどの土地に黒豆を播いた。種豆は大規模農業を展開する彰久さんが提供してくださった。虫の心配も、肥料もいらず、草を引き抜くだけで、いい豆が採れた。有難いことでございました。
黒豆はお客さんに少しずつお土産に持って帰ってもらい、家で家内が味噌もつくった。炒ってからミルで挽いて粉にし、家で作っているカスピ海ヨーグルトに混ぜて毎朝食べてもいる。炒り豆は口さみしい時にいい。いつでも食べたいときに、数粒口に入れて、ポリポリ食べる。子どものころはよくオヤツに食べた。栄養価もあるし、おいしい。
 そんなことや工房のこと、樹木葬プロジェクトのことなどを年賀状の本文に書いてパソコンで印刷した。昨年と一昨年に受け取った年賀状をダンボール箱から取り出してきて、それに目を通しながら、今年送る人を限定した。送られてくる年賀状のなかには、ただ型どおりのあいさつが印刷されているだけのものがある。そういうのは受け取っても何の感慨もない。こういう魂のこもっていない、形式的な儀礼はやめたい。できるならば年賀状を減らしたい。毎年そう思うのだが、せっかく送ってきてくれた賀状だし、今自分がどうしているのかという中身がなくても、一枚の紙が無事でいるよと知らせてくれているのだから、という思いも起こって迷う。そこでまず送りたい最小必要分だけ書くことにした。
 はがきの本文の下には少し空白を作ってある。そこに送る相手一人ひとりへの文をペンでしたためる。昨年と一昨年に受け取った賀状を読み返すと、再び読み返しても印象深い文章がある。ぼくの最初の教え子で、成人して小学校教師になり、今は定年を迎えて退職しているテイコさんが書いてきた文章はこうだった。
 
 「冬空に生駒山がきれいに見えます。そういえば、あの山に登りたいと、学校に来ず、山に向かって自転車をこいでいった男の子がいたのを思い出します。教師としては大あわてでしたが、そんな少年の気持ちと行動が、すばらしく、なつかしく、思い出されます。」

 この文章はぼくの胸を打った。こういう子をぼくもいとおしいと思う。けなげな子だと思う。そしてまた、この子をそう思ったテイコさんもすばらしいと思う。子どものこういう心と行動に感動する人こそ教師になってほしいとぼくは思う。
 はがきを繰っていくと、はがきの上半分に北アルプス五竜岳の写真が印刷されているのが出てきた。頂上から眺めた稜線の写真で、山小屋の屋根が写っている。自分のカメラで撮ったものだろう。大学山岳部の先輩だったフジヤンからのものだった。フジヤンは、淀川中学校時代の同僚でもあった。

 「去年も幸い夏山に行けました。新穂高温泉から双六岳、三俣蓮華岳黒部五郎岳を経て、富山に抜けました。ごいっしょできる友がいることは、うれしいかぎりです。数々の生活習慣病を背負っていますが、毎日、サンデーと楽しんでいます。家内の介護もあり、けっこう忙しい日々です。ヨッシャンとまた山登りができることを夢見ています。体の細いサカヤンは強いです。」

 フジヤンはもう山には登れないだろうと一時思っていた。それほど健康を損なっていた。そのフジヤンが、淀川中学校時代の同僚だったサカヤンと、年が70歳の後半になっているのに再び山に登っている。それもかなりハードな縦走だ。ぼくはうれしくなった。励まされる賀状だった。フジヤンの夢だというぼくといっしょに登る山、これはなんとかしなければならない。ヨッシャン、しっかりしろ。
 加美中学校同僚だったアサダさんからの、一昨年の賀状も印象的だった。

 「生駒山地の南端を区切るように、大和川が河内平野に流れ込みます。その山と野の境をなすあたりに拙宅があります。東側背後が山稜のため、いきなりといった感じで朝日が顔をのぞかせます。のどかな風景です。今年は、いわゆる『太平洋戦争』の開戦から70年になります。私も齢70半ばになりました。少年期、このあたりには軍隊の作業場と戦闘機のえんたい壕と朝鮮人飯場がありました。今もその情景と空襲と飢餓の恐怖が頭をよぎります。近頃地の底にうごめく嫌なものを感じます。『国』の強調、価値観の押し付け、メディアの一方的報道などなど‥‥。何があっても戦争はNOです。」

 あのころも今も情況は同じではないか。今はそれ以上ではないかと思う。