ニュースの中の事実と主観


ニュースは事実を報道するものであるが、完璧に事実をとらえて報道することはきわめて難しい。
ひとりの記者が「事実」を観たり聞いたりして、一つの認識を得たとしても、その認識は「事実」とは別のものである。
「山のような津波が押し寄せた。」という文では、「山のような」は、見た人の主観的表現で、客観的な事実ではない。
建物の残骸に残されていた津浪の跡がある。それを測って、高さ20メートルの津波だった、と言えば事実に近づいたことになる。
だが、「山のような」という主観的表現には、その人の驚き、恐怖が表れていて、数字の表現とは別のものが含まれる。


今の大震災を報道する記事の中で、たとえば、
首相官邸では、計画停電以外でも東電へのいら立ちが出ている。」(朝日、15日)
という表現の「いら立ちが出ている」というのは、首相官邸での発言から察せられる空気で、主観ではあるが、その根拠となるものがあるはずである。
次は原発についての記事の中のもの。
「首相側は、被災者や原発周辺住民をはじめ、国民の不安をあおることを懸念するため、慎重にならざるを得ない事情もあるようだ。」(同、15日)
「(ある会社の社長が)『停電そのものはやむを得ないが、早めに停電の時間を確定してもらわないと手が打てない』と、東電の対応に不満をもらした。」(同、15日)
「官邸には福島第一原発をめぐる事態の深刻化を予想する様子はうかがえなかった。」(同、16日)
「枝野氏は『なんらかの爆発的事象があったと報告された』と慎重な言い回しに終始。」(同、16日)
「首相は東電側の対応に業を煮やす一方で、パフォーマンスにもこだわった。13日夜、蓮舫行政刷新相に新たな『節電啓発相』の肩書きをつけ、社民党を離党した辻元清美衆院議員を被災者支援担当に据えた。14日には『被災地の現地状況を直接把握したい』と再び現地視察に意欲を見せたが、救出活動にあたる現地が混乱しかねず、周囲が取りなして中止させた。」(同、16日)


いずれも記者の主観のにじむ表現だが、これは状況を伝えようとしているからだと理解できるのと、これはその記者の想いが出すぎて、客観性を持っていないと思われるのとがある。「パフォーマンスにもこだわった」というのは客観的な事実と言えるだろうか。
他の記者なら、別の見方をするであろう記事である。


ニュースには、事実にプラスして、記者・表現者の主観がどうしても混じる。
混じっても、ほぼ事実を即しているならば問題はないが、それが誤解、曲解を生む場合は問題になる。
大正時代の関東大震災で、差別的な考えをもつ軍人の流したデマがもとで市民の自警団が作られ、朝鮮人や左翼思想の日本人らが多数殺された。強い方言を話す日本の地方の人のなかにも殺された人がいたと読んだことがある。
ニュースを送る人の、考え、思いがあって、それが情報に加わると、表現者の色の着いたニュースになり、これを信じたり、これにたぶらかされたり、踊らされたりすると、破滅的な事態を引き起こすこともある。
阪神淡路大震災では、被災者は冷静に対処し、助け合いが進んだ。
今回も、大きな混乱が起きないで、驚異的な冷静さで避難がなされ、救助が進められている、と報道されている。
原発が大事に至らないように、被災者への救助がはかどるように、今はひたすら祈るばかり。


東京女子大学教授の広瀬弘忠さんが、書いている。
「パニックは事実の隠蔽(いんぺい)が引き起こす。
どんなに深刻な状況でも、事実に直面すれば起きない。
デマも同様で、曖昧模糊(あいまいもこ)としたものを解釈する過程で生まれる。
一般大衆の願望、疑い、恐れが、物語へと組み込まれた一種の作品なのだ。
民衆の想像力は、被災者を支援したり、元気付けたりする方策にこそ使われるべきだ。」(朝日)


この長野でも、ガソリンスタンドが品切れとなり給油することができず、スーパーで品物を買いだめする人がいて品不足になっている。
正しい情報があり、事実にもとづいて行動しようとする意識がさらに必要だ。