我々はどこから来たのか、我々は何か、我々はどこへ行くのか



十年前、斑鳩の里のウノマッチャンの家で、敏郎さんがつぶやいた。
「私はどこから来たのか、私はどこへ行くのか。」
三十年以上前、敏郎さんはこの問いを秘めて東南アジアをさすらい、そして出会いがあって「丘の上の共同体」に入った。
無着成恭さんが教壇を去るときの著「ヘソの歌」に書かれていた牛飼いは、たぶん敏郎さんだとぼくは想像する。
「共同体」のなかで牛を飼い、豚を世話し、都会の膨大な食料残渣をその餌へと循環するシステムを敏郎さんは実践した。
それは眼を見張る取り組みだったが、「共同体」もまた一過程であった。
「私はどこから来たのか、私はどこへ行くのか」。敏郎さんは「共同体」を去り再び漂泊に出た。


「私はどこから来たのか、私はどこへ行くのか。」
私という一人の人間について自ら問いかける。
茫漠の彼方から、茫漠の彼方に去っていく私よ、私はどこへ行くのか。
そしてさらに、人類に対して問いかける。
人間よ、お前たちはどこから来たのか、お前たちはどこへ行くのか。
確実に滅びに至る人類であることを、人間はとらえ始めてはいても、今という目先のことと近い将来だけを夢見て右往左往して生きている。


ヨハネによる福音・第8章:14節、
『イエスは答えて言われた。
「たとえわたしが自分のことを証ししても、わたしの証しは真実である。それは、わたしがどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからである。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。あなたがたは肉によって人をさばくが、わたしはだれもさばかない。」』


1897年、フランスの画家ゴーギャンは、タヒチ島に8年間滞在し、人類最後の楽園と思うタヒチ現住民の生活を描いた。
生まれ出た赤子、果実をとる若者、老婆。
作品にタイトルをつけた。
『我々はどこから来たのか、我々は何か、我々はどこへ行くのか』。


1212年、鎌倉時代の初期、鴨長明はその随筆「方丈記」冒頭に、次の言葉を書いた。


「朝(あした)に死に、夕(ゆうべ)に生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
知らず、生まれ死ぬる人、
いづかたより来たりて、いづかたへか去る。
また知らず、
仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。
その、主(あるじ)と住みかと無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。」


この世のすべては、やがて滅び消えていく。
その過程に生きている私たち、
どこから来て、どこへ行こうとしているのか。
日本の歴史の中で語られてきた「無常観」。


今も昔も、洋の東西でも、人々につきつけている問い。
「わたしたちはどこから来てどこへ行くのか? ―科学が語る人間の意味 」(佐倉 統 ・著)
自分とはなんだろう、生命とはなんだろう、社会とはなんだろう、
その問いかけに、遺伝子とミーム(文化の伝達単位)から考えているという。