安曇野の産廃処理業者の施設稼動を認めた長野県と、沖縄・竹富島

      <住民自治を無視する行政と重視する行政>




沖縄県八重山諸島の一つの島、竹富島の町長、川満栄長さんの投稿記事が朝日新聞に出ていた。(「私の視点」)
竹富島石垣島の隣にある。
小さな島だが、八重山の伝統的風土と美しい自然が確かに保存されてきた魅力的な島である。
集落は赤瓦の民家・石積みの垣根・白砂の道、水牛、美しい海、
住民たちは、「売らない」「汚さない」「乱さない」「壊さない」「生かす」という竹富島憲章を作り、
開発業者から島を守ってきた。
ところが、今年7月、島の町民は苦渋の決断を迫られた。リゾート開発を認めるかどうかという選択だった。
島民は、賛成と反対に割れた。


川満さんはこう述べている。

 「竹富島は本土復帰前、大型台風と大干ばつで疲弊し、本土資本に土地を売って島を離れる人が続出しました。このままでは開発の名のもと島を荒らされかねないと危機感を抱いた住民は、土地を守ろうという運動を展開、島の有力者を中心に少しずつ土地を買い戻し、1986年には憲章を作って、運動に理念を与えました。
 しかし、完全に買い戻すことはできず、3年ほど前、抵当権が銀行から外国のファンド会社に渡ったのです。転売されたら憲章の精神を侵されかねない。であれば自らの手で、と有力者が長野県の業者の支援を仰ぎ、リゾート開発を計画したものです。開発に反対する声と、有力者に任せようという声で島は揺れました。
 そんな住民の困惑をよそに、業者の地元説明会は非公開で、撮影も録音も許さない。住民の声を十分に聞いたとはいえず、説明会を開いたという既成事実づくりにも見えた。反対意見が十分に反映されないまま書類は整えられ、県の許可が出た。計画は着々と進み始めたのです。
 私が町長に就任したのは2008年9月、県の許可の直後でした。私は賛否はともかく事業の強行だけは許さないという心構えで業者と話し合いを続けました。‥‥徹底した情報公開と住民との対話を業者に求め、約1年半、事業をストップさせました。住民に判断材料を提供したうえで、最終的には、「うつぐみ」(みんなで一致協力して物事に当たろうという竹富島の言葉)に任せようと考えたからです。
 行政がすべきことは、中立的な立場で自らの情報を開示し、業者に開示させ、あとは住民の判断に従うこと。それが自治だと考えます。業者のトップも私の考えを理解し、何度も住民とひざを交えて話し合ってくれた。今年3月の住民総会では、大差で賛成が上回りました。」


開発反対、憲章を守れという声は今もあるが、結局住民総会の決定にそって竹富島は動いている。
企業は、自己の利益を優先する。
いったん認可を得れば、事業優先路線が膨張していく。
そこに危険が潜む。
しかし、住民の願いと総会の意志、そして自治を尊重する竹富町政があるかぎり、業者は、竹富島の歴史と住民憲章を踏みにじる開発行為に出ることはできない。
住民の自治意識の高さが今後の道を作るだろう。
竹富町の住民が行なった、自分たちで土地を買い戻す行動、これはイギリス発祥のナショナルトラスト運動を思い起こす。


この記事を読んで、今おこっている地元の産業廃棄物処理施設の問題を思った。


8月知事選があり、村井知事の任期が終わって阿部新知事が9月から就任するその直前、施設に反対していた住民たちが危惧していたとおり、村井知事は認可を置き土産に去っていった。
安曇野市三郷に建設された産業廃棄物処理施設を県は認可し、住民の声を村井知事は無視した。
今から思えば、7月と8月に行なわれた三郷と堀金の、県による二度の住民説明会は、結局は住民の声を聞くというよりは、行政側の「産廃施設を認可する」と言う通告の会だったのだ。
行政側は、自分たちの考えを説明して一応の手続きを終わり、施設を認可する、そういう筋書きだったのだろう。説明会には業者側は呼ばれず、県の代表は課長、それでことは収まるとたかをくくっていた節がある。
しかし説明会で住民たちは、自主的に進めてきた施設の検証や被害の実態、今後予想されること、研究してきた各地の公害の事例などを、詳細に訴えた。
そして施設建設の過程で行なわれてきた企業側の住民無視や欺瞞も明らかにした。
住民側が準備してきた事実と論理は、県の代表たちにとって、思いもかけないことであったろう。
さらに最も問題であったのは、「行政の誠実さとは何か」と「行政の責務とは何か」を住民から問われながら、代表たちはまったく感じている様子がなかったことであった。
行政側にとってそれは最も痛恨の痛手であるはずなのに、説明会の代表にそれが感じられなかったのは、はじめからシナリオが決まっていたからではなかったか。
課長はしばしば、「私たちは組織で動いているから」と発言した。
だから、住民側から、
「業者と直接話し合う場をつくってほしい」
「説明会をこれで終わりにしないでほしい」
「見切り発車の認可を絶対しないで、住民との話し合いと現場の検証をつづけてほしい」
と強い要請が出されても、彼らは、「私たちは組織だから答えられない」の一辺倒だったのだ。
行政は環境問題のプロであるべきであり、実地調査も最も先進的研究によって行ない、住民側に被害が起こらないように責任を持つべきであるにもかかわらず、ただただややこしい問題に早く決着をつけたいという思惑が先行したのだ。
もし問題があるならば、業者を指導して、問題点を正させる、それが行政の仕事だといいながら、住民の中に腰をすえて、問題点とは何かを見極めることをしない。
だから、住民は怒る、「深刻な被害が出るまでは動かないということか、被害が出た時は遅いではないか。」
水俣病は戦後顕在化し、60余年今も被害は続いているではないか。
そして各地の公害、環境破壊においても、対策は後手後手のまま、住民が被害を受け続けている。


役人たちにとって「住民説明会」は、認可を前提とする行程表の一つであった。
そして彼らは仕事をひとつこなし、
住民の苦悩は、深くなった。
このような行政をただすのは、苦悩する住民自治の動きしかない。
産廃施設の周りのリンゴ園では、リンゴが赤く色づき始めている。