さだまさし「二小節の詩」

michimasa19372009-02-10





                            ほころぶ梅の花


さだまさしが、30歳のときに出した365の言葉の断章があります。
「二小節の詩」と題されて、1957年に自由書館から出版されています。
自分の言葉を自分のメロディに乗せてギターを弾き歌う、長崎出身の歌手、さだまさし
20代の彼の頭によぎってきた言葉をまとめた詩、
そのなかの気に入ったものを、キャラメルのひと粒を味わうように読むと、
いい気持ちになります。
少しもむずかしいことはない。
なるほどねえ、そうだねえ、そうかあ、そうそう、ハッハッハうまいこと言うねえ、
共感しながら言葉をしゃぶります。
学校の授業で、教材に使うとおもしろいだろうな。
こういうつぶやきを子どもたちにも書いてもらい、それを拾うと、
人間や社会や家族や、学校や友だちや進路や人生について、
楽しく考えることが出来そうです。


      ▽  ▽  ▽


   子どもたちは、
   すべてのものに神様を発見できる能力を持っている。
   ただし、彼らは、それらの神様に、
   他人に接するような しらじらしい敬意は払わない。
   なぜかというと、彼らは神様の相棒だから。


          人の優しさは、甘さではなく、
          許容量である、と思う。


   力に対抗するのに必要なのは力だ、
   という考え方しか持てないのが人間であるならば、
   遠からず、
   人間は消滅してしまう。


          「大人は子の鏡」という言い方と、
          「子は大人の鏡」という言い方があるけれども、
          どちらもすこうし子どもをナメている。
          子どもはそんな風に思っちゃいけない。
          体温に敏感な分だけ、大人たちより大人なんだ。


   愛を行使する最大の武器の一つが、
   勇気であることを知っている。
   切れ味の良い両刃の剣が何であるかを知っている。
   「本当」の半分が嘘であり、
   嘘の半分が「真実」であることを理解している。


          タバコの煙を鼻から出すのが正しい、
          などと誰かが言うと、
          いや口から出すほうが正しい、
          という反対意見が出る。
          その二つが人の眼を奪っているうちに、
          タバコを吸うことそのものについての視点がぼやけて、
          ガキまでタバコの煙の出し方を論じたりするようになる。
          情報の氾濫が、「本質」をぼやけさすことは、
          とても多いのではないかと思う。


   人は誰でも傷つけまいとして傷つけ、
   傷つくまいとして、さらに傷ついて、
   生きているのでしょうか。


          ぼくたちは、何のために生きているのだろう。
          この質問に正解がありえないのは、
          この問題が主観的なものだからでしょうか。
          正解にもっとも近い答は、
          「わからない」のはずで、
          だが残念ながら我々は、
          なんでもよいから、答について決めつけを行ないます。


   悩むことは大切だし、必要だと思うが、
   ひきずるのは間違いなのだ。
   せっかく生きているのだから、思いきり、はつらつと、精一杯悩み、
   精一杯楽しみ、
   それで最後に面白かったなあ、と思いたい。


           挫折感を抱いて郷里へ帰ったことがおありですか。
           おれは挫折したんだと、
           自覚が強ければ強いほど、郷里が怖いもんです。
           自分のみじめさを郷里が見抜いていそうで、人の視線がおそろしい。
           それでもそういう思いをしてまで帰って来させる「郷里」は、
           やっぱり偉大です。



         ▽    ▽    ▽


 「人の優しさは甘さではなく、許容量である」、
日ごろ優しいと思われている人が、あるきっかけで冷酷な人になることがあります。
その人の置かれる状況、相手との関係によって、ごろっと変わるのです。
優しさが影を潜める、優しさを発揮できない、ストップしてしまうのです。
許容量、寛容さ、度量、ふところの深さ、それが豊かな人こそ優しい人と言えるのでしょう。
 「力に対抗するのに必要なのは力だ」、
強大な武力を持つと、武力に対抗するのに必要なのは武力だと、それを行使することにためらわない国家指導者が今や跋扈しているようです。
 「『本当』の半分が嘘であり、嘘の半分が『真実』である」、
そのことを分かっていながら、私たちはあまり意識せずに日常生活を送っています。
 「情報の氾濫が、『本質』をぼやけさす」、
今や大津波ですね。
 「それでもそういう思いをしてまで帰って来させる『郷里』は、やっぱり偉大です」、
郷里はそういうところだったかもしれない。
しかし現代、人は郷里、故郷をもっていますか。