鳥たちの会議

michimasa19372008-11-19




小春日和の日、屋根でしきりにおしゃべりしている雀の声が聞こえてくる。
これが実に豊かな会話で、画一的なさえずりではない。
おしゃべりを楽しんでいるとしか思えない複雑さがある。
彼らは家族や一族で群れを作っているらしい。
豊作の稲田でたっぷり食べて冬に備える今、
稲やソバの刈田に行けばまだ地面から食べ物がついばめる。
だがこれから先、雪が積もり、一面の銀世界になると、食べ物を探すのはたいへんだ。
零下十数度にもなると、凍死する雀も出てくる。


今、人間界の政治や社会の状況は、「万物の霊長、ここに極まれり」と言えるほどのていたらく。
哲学者、内山節が面白いことを書いている。
政治とは何か、社会ある以上ルールが生まれ、そこに政治が発生するが、
鳥の世界でもそうなんだと、長年の観察を書いている。


 「鳥たちもまた自分たちのルールを持って暮らしていることが分かる。
それは少なくとも二重のルールになっていて、ひとつはスズメのルール、ヤマバトのルールというようにつくられている自分たちの種族のルールで、
もうひとつは種族をこえた鳥の世界全体のルールである。
それはどちらもあまり厳しいものではなく、それぞれの行動を尊重しながら、全体としてゆるやかな共同の社会を維持するために必要なこと、といった程度である。
 ところが、たまに、ルールを守らない鳥がでてくる。
自分だけで餌を独占しようとしたり、ハンディがある弱い鳥につっかかったりというようなことなのだけれど、
そういうとき他の鳥たちは、嫌な顔をしてその鳥の行動を見ている。
そして、そのような行動がつづくと、鳥たちは集まって会議を開く。
その会議の中心にいるのは、鳥たちから一目置かれている鳥で、
それは新しい餌場をみつけて他の鳥たちに教えたり、ハンディのある鳥を守ったりしている鳥である。
この会議に、問題を起こしている鳥は呼ばれない。
 こうして、問題の鳥に対する処分が決まる。面白いのは、その決定に従って問題の鳥に制裁を加えるのは、
同種の間では一目置かれている一羽の鳥だけの仕事になることである。こうして一対一の対決がはじまり、他の鳥たちはその様子を見ているだけである。
私の知っているかぎりでは、必ず一目置かれている鳥が勝つ。
ただしこの場合も、問題のある鳥が『降参』のポーズをとると対決は終わり、その鳥も十枚程度の羽毛を失うことで、あとはみんながみている前で敗北を認めることで終わる。」(内山節『戦争という仕事』 信濃毎日新聞社
 

内山氏は、このような観察から、鳥の世界にも政治があると述べている。
人間もかつては政治機構のない共同体の中で、みんなが生きていくためのルールをつくって、
問題が起こるとみんなが集まって会議を開いて相談していた。
そこで重要な役目をはたすのは、「一目置かれている人」。
みんなから信用を集めている人であった。
内山氏の表現は、「一目置かれている人」であって、「君臨する人」「ボス」ではないところに注目する。
そしてここで、内山氏は重要な指摘をする。


「自分たちで自分たちのルールの大半を決めていくことは、一面でのわずらわしさを持っている。
だが、人々がそのわずらわしさを捨て、国家や行政に何から何までまかすようになったとき、
そこに現われてきたものは、国民として管理される私たちであり、不信感に満ちた政治の存在であり、
肥大化していく官僚機構であるという現実を、今私たちはどう考えたらよいのだろうか。
政治という仕事を『権力』にゆだねた結果、その権力に魅力を感じる人を生み、
権力を維持しようとする人々の腐敗と堕落を恒常化させた。
そして、私たち自身が、堕落した権力機構の被害者になってしまったのである。」


巨大化した国家はもちろんのこと、所属する組織や集団においても、同様のことが言える。
学校という集団では、入学してくる生徒は決められた細かいルールのなかに入ってくることになっている。
だから規則を守るように管理される。
かくして、問題が起こればどうするか、自分たちでルールを考え、解決していく方法を練るという自治の訓練はなされない。
形骸化した自治しか存在しない。
学校は、ここから作っていかねばならない。
日々新たに。