国分一太郎 


        生活綴り方教育との出会い


あの本の初版が出版されたのは1951年だったが、
ぼくが手に入れたのは、
それから10年経った1961年だった。
ぼくはまだ教師のヒヨコ。


子どもの見方、教育というものについて、
ずしんと胸に響いてきたあの青い表紙の読み古した本は、
その後のぼくの人生遍歴のなかで失ってしまった。
だが、あの冒頭の子どもの詩は、今もよく覚えている。
雨をなぜ雨と言うのかと、
ひらめいた疑問を東北の方言でつづった子どものつぶやきだった。
国分一太郎も、東北なまりの強い人だった。


きのう、私は、私の家のうらの、
私の家の畑の、
私の家の桃をとって食べました。


この子どもの文章について、国分一太郎は書いた。


なんべんもくりかえす「私の家の」は、
かんたんに、削りさってよい、
よけいなコトバではないのである。
このモモは、
けっして「よその家の畑の、
よその家のモモ」ではないのである。
まさしく「私の家のモモ」なのである。
かつて他人のものを盗み、ドロボウ気があると、
疑われている、
菊池松次郎の、
心理状態を知っている、
細心な先生だけが、
この綴り方の深い意味を知ることができる。


国分一太郎を知っている教師は、
今ではもう少なくなっただろう。
あの時代、
多くの家庭が貧しかった時代、
家族みんなが仕事を分担せねばならなかった時代、
生きるという営みを、
家族みんなで共有した時代、
だからこそ、つらく苦しい現実の中で、
ひたむきに生きた子どもたち。


あの時代の教育実践者たちは、
子どもたちに生活現実を見つめさせ、
考えさせ、綴らせ、
協同という営みを学級集団に取り入れた。
教師と子どもの信頼関係で学びの世界を織りなした。
それが、生活綴り方教育だった。


こぶしの花が好きだった国分一太郎
山形県東根市では、四月十四日に、
国分一太郎を偲ぶ「こぶし忌」が毎年行われる。


この実践を継承し、発展させていくところに、
新たな展望が生まれる。
現代は現代の苦悶の中から、生まれるものがある。
そこに、その実践を担う教師のやり甲斐、
生き甲斐がある。