痛む心と悼む心


         人の痛みを感じて、私の心が痛む


友人の通信が送られてきた。
彼は西国三十三所観音霊場を巡礼している。
そのことについて書いている文章の中で、
一人の社会主義者との出会いをつづっていた。
労働運動の闘士であったその人も友人と同じ観音霊場をめぐっていた。
友人はどうして彼が霊場巡礼をしているのか、疑問に思い訊ねた。
返ってきた答は、
特攻隊員として死んでいった戦友の魂を鎮めるために巡礼しているのだ、
というものだった。


友人は彼の鎮魂の巡礼を理解する。
そして思う。
靖国をはじめとする国際問題をめぐって日本の政治家や学者が論じているなかに、
アジアの犠牲者を共に悼む心がほとんど表れてこないのは、どうしてだろう、と。


友人は、
靖国に眠る魂も、
日本軍によって虐殺された中国人の魂も、
従軍慰安婦にさせられたアジアの女性の魂や、
今も北朝鮮で餓死している人びとの魂も、
すべての犠牲者を悼んで巡礼し、
観世音菩薩に語りかけているのだという。


悼む心のもとには、痛む心がある。
心がきしきし痛む。
慙愧の念は、しびれるような痛みだ。
それを感じない人がふえているのだろうか。
政治家の中でも、悼む心をもっている人たちが、
どんどん減りつづけているようなのだ。


立花隆が、いろんなアンケートの結果から、
「中国側に歴史認識が欠けていると言われても、
その意味すらわからない世代が多数派になっているらしい」
と推察している。
そしてこう書いている。
「体験のある人とない人とでは、
中国や韓国の人びとがよく口にする『歴史認識』の問題の受け取り方が
まるでちがってくる。
外国で絶対的支配者の側に立つことを経験したことがない人には、
おそらく、支配される側に立たされた人々の気持ちが
まるで分からないだろうと思う。」
立花隆は、幼児期に戦時中の北京で育った経験を持っているが、
幼くてもそのときの体験が記憶となって残っている。


ワールドカップでのジダンの行為が大きく報道された。
その行為は許されないが、気持ちは理解できる、と
シラク大統領も語っていた。
理解できるというのは、単なる知識で理解できるのではない。
植民地からの移民の悲哀と苦悩の歴史、
その痛みの理解は、感じる心があって理解を生むのだ。
相手の痛みを感じて、私の心が痛む。
それが痛みの理解だ。


在日の朝鮮学校に対する悪意に満ちた行為が増えていると、
ニュースが伝えている。
太陽も滅べ、かくて我も滅ぶべきなり、
と昔詠った被差別部落の詩人の、
絶望の深さにたどりつけなくても、
その痛みをいささかでも共感し、汲み取ろうとする心によって、
人は人への理解に近づき、
ともに絶望から立ち上がっていくのだと思う。