日本に渡来してきた人


         春の野


昔、葛城族の住んでいた辺り、金剛の麓の家々に朝日が射す。
ナズナ、踊子草の咲く野道、
馬酔木、椿の花が咲いている。
沈丁花の香りもただよってくる。
杏も開きだした。
見晴るかす大和国原、畝傍山耳成山、天の香具山。
左遠くに、春日山若草山も見える。


立ち止まって、大和を俯瞰する。
時間は千数百年前にスリップし、
俯瞰図は頭の中で、河内、難波まで拡張した。


山々に囲まれた大和盆地に古代、人は移り住んできた。
大阪、難波の港に下り立った古代朝鮮の渡来人は、
河内から竹之内街道を通って葛城、明日香へ入った。
その途中の地にも渡来人は住み着いた。
大阪加美に鞍作というところがある。
そこは飛鳥寺の本尊仏をつくり、
法隆寺金堂の釈迦三尊像をつくった、
百済からやってきた仏師・鞍作の止利が住んでいた。
近くを、今は平野川と呼ばれている百済川が流れている。
藤井寺には「からくに神社(辛国神社、韓国神社)」がある。
羽曳野市周辺は「近つ明日香」、古代史の宝庫。
河内国の渡来系氏族は、70%が渡来系だったという説がある。


二上山の竹之内峠をこえて大和の国へ、
当麻から南へ入った渡来人は、
葛城・金剛山の麓に住みついた。
発掘される遺跡に、朝鮮のオンドルが使われていたらしい跡があった。
当麻から東に進めば、「遠つ明日香」。
キトラ古墳高松塚古墳も、
朝鮮系の渡来人が自分たちの故郷を思い出しながら、
壁画を描いたのだろう。
隣村、高取町も、古墳時代から飛鳥時代にかけての遺跡が多く、
渡来人たちが多く住み着いたところ。
弥生時代から大和時代まで、
いったいどれだけの渡来人がやってきて、この地に住み着いたのだろう。
一説に、50万から100万人の渡来人がきたという。
その数は、当時の少ない人口からすれば、相当な比率だ。
都はやがて明日香から平城京に移った。
文化も移っていった。


大阪上町台地の難波の港と、明日香、そして平城京
この三箇所を結べば三角形になる。
百済高句麗、そして中国、
日本との往来に、
パスポートもビザも不要だった。
飛行機も車も無かった時代、
何日間もかかって人は移動した。
それでも国と国とは近かった。
日本からは遣隋使、遣唐使たち、留学生が海を渡った。
中国から鑑真和上がやってきた。


先住民の縄文人、渡来人の弥生人
朝鮮、中国からやってきた人たち、
多くの血が融合し、文化は合体して日本人が生まれた。