魔が差す


      魔が差す


子どもの頃、包丁を持っていたら、
母がよく言った、魔が差すから置きなさい、と。
包丁を持っていても何もないのに、どうして?
母の心配が分からなかった。
けれど、今、その恐れが分かる。
自分は意図しない、
そんなことをする気はない、
悪いことはわかっている、
それなのに思いがけない悪や事故を人は起こしてしまう。
魔が差したとしか言いようのないことが起こる。
この頃、新聞やTVをにぎわしている事件のなかに、
魔が差したのかもしれないと思える事件がある。
だが、それは魔が差したのだろうか。
魔とは何だ。
魔は心の中にひそんでいるのか、
それとも魔は人の中へ突如入ってくるものなのか。


人生を振り返れば、
自分の犯した罪と思えることが、くっきり記憶がとらえている。
そのときは、そのことを罪とも間違いとも認識しなかった。
人生を経るほどに、自分のなかで自分を裁く装置があり、
あれは自分のまちがいだと、
記憶にそれらは蓄積している。
心を傷つけたこと、心を軽んじたこと、
間違った見方や考え方、それにもとづく行動、
なぜそういうことをしたのか、と今になって思う、
たくさんの罪がある。
あれは魔が差したのか、
魔が自分の中に飛び込んできたのか。
それとも自分の中の魔が動いたのか。


その映像は辛く悲しかった。
アウシュビッツに送られたユダヤ人女性が、
自分の命をながらえるために、収容所につくられた音楽隊のメンバーになろうとした。
ナチによってつくられた音楽隊は、
収容所に送られてくるユダヤ人を迎えるために、
ゲイトの近くで演奏するのが役目だった。
収容所は死を約束しているところ、
演奏は欺瞞ではあったが、楽隊員になれば、死への時間が延ばされる。
隊員になるためにはウソもつかなければならなかった。
彼女は毎日演奏を続け、つぎつぎと人は送り込まれ、殺されていった。


戦争が終わり、女性の命は助かった。
悲劇の民、ユダヤ人はカナンの地に、イスラエルを建国する。
だが、それはアラブの地を侵すことであった。
祖国イスラエルに帰った彼女はパレスチナと戦う祖国をつぶさに見る。
迫害されてきたわが民が迫害を行なっている、
女性の罪の意識がうずいた。
自分は同胞の犠牲によって生きながらえた。
そして今、祖国は新たな犠牲を生んでいる。
女性は、忘れようにも忘れられないアウシュビッツを訪れる決意をした。
音楽隊が演奏をしていたかつての場所で、
女性は、長い悲しみとざんげの涙を流し、
最後に選んだ道は、
祖国を離れて、再びドイツに住もうとすることだった。