春よ、春

 

 

  「庭で、聴きなれない鳥の声がする」と洋子 が言う。ガラス戸を開けて出て見ると、もう聞こえなかった。耳を澄ますとOさんの庭で、それらしい鳴き声が小さく聴こえた。

  「クロウタドリや」

   半分冗談でそう言ったが、ひょっとしたらそうかも、と思いながら、掃き出し窓を閉めた。

    クロウタドリの声を初めて聴いたのは十数年前、チロルの山村だった。村の教会の尖塔に止まって、村中に響き渡る声で歌っていた。地面に降りて歩いている姿を見たのは、ウイーンの公園だった。ヨーロッパの初夏はあちこちでクロウタドリの声を聴く。遠くまで聞こえる長いさえずりは歌うようだからクロウタドリ

    クロウタドリは中国にもやってきて啼くし、日本でまれに冬鳥としてやってきて啼くこともあるそうだ。ツグミの仲間だ。

    今朝、庭で聴いていた声はクロウタドリかもしれないと想像しただけで、なんとなく心が弾むような気がした。

 

    雪が解けたとたんに、春が噴き出てきた。まさにスプリング。バネのように勢いよく、泉のようにコンコンと湧き出る。

    野の草を踏んで歩く。テントウムシが這っていた。アリが数匹。顔の前を群れて飛ぶメマトイ。イヌフグリの小花、タンポポの花。

    庭のスイセンは種類ごとにぎっしり身を寄せ合って花茎を伸ばし、咲きだした。小さなニオイスミレが群落をつくっている。梅花が満開。今年はたくさん梅干しが作れそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

石牟礼道子 「無常の使い」

 

 

    市の図書館で石牟礼道子の本を見かけた。本のタイトルは、「無常の使い」。彼女の想いの香り立つ文章をまた読みたいと思って借りて帰った。

 「五十年くらい前まで、私の村では、人が死ぬと『無常の使い』というものに立ってもらった。必ず二人組で衣服を改め、死者の縁者の家へ歩いて行ったものである。

   『水俣から無常のお使いにあがりました。お宅のご親戚の誰それさんが、お果てにな

りました』

    死者を出した村では、男も女も仕事を休み、男は墓穴を掘り、棺桶を作った。

    村の共同体すべてが、故人の思い出を持っていた時代がそこにあった。死者たちは生者たちに、おのが生命の終わりを、はなむけに残して、逝くのである。

    その無常の使いはもうすっかり死語になってしまった。」

 

    漁村、水俣に、チッソのもたらした惨劇は、人を、村を、海を、暮らしを、歴史を、ことごとく破壊した。石牟礼道子が文章に著わした「無常の使い」は、荒畑寒村、細川一、仲宗根政善白川静鶴見和子橋川文三、上野栄信、谷川雁、井上光春、土本典昭宇井純ら23人 。

 

    鶴見俊輔の姉、社会学者の鶴見和子さんは、不知火海総合学術調査団に参加し、水俣に来た。石牟礼道子はその時のことを書く。

    「水俣にこの方をお迎えできたことは、天の配剤だったと思います。なりそこないの日本近代はどうあればよかったのか考えておりましたので、和子さんのおっしゃる内発的発展論を知った時、これぞ日本人の自立を促すカギだと思ったことです。和子さんが水俣にいらした時、訪問予定の反対側の家に入ってしまわれました。そこにその家の主人が風呂上りの一糸まとわぬ姿で立っていた。家をまちがえたと気づかない和子さんは、これが漁村の日常風景だと思われたらしく、ノートを取り出して、どんどん質問をなさった。男性は仰天した表情だったけれど、興に乗って実り豊かな話が聞けた。裸のご主人は、『来年また来てくだはりまっせ』とあいさつなさった。」

 

    鶴見和子さんは、2006年に亡くなられた。和子さんは遺言で、自分の遺骨は紀伊の海に散骨してほしいと言っていた。弟の鶴見俊輔さんは「葬送の自由をすすめる会」の協力を得てそれを実行した。

    鶴見和子鶴見俊輔姉弟が幼かったころの思い出を、石牟礼道子さんは和子さんから聴いた。

    「雪の降る日はね、庭の中を二人がね、チーンチーンと鉦をたたいて回るのよ、巡礼ごっこ。雪が降るとどうしてあれがやりたかったのかしら。弟と二人で、内緒の遊びなの。楽しかったわあ。」

    この遊びをすると親からひどく叱られたらしい。

 

 「苦しんで苦しんで、考えたっばい。チッソを許そうと。一時は呪い殺すぞち思わんでもなかったが、人は恨めばもう苦しか。チッソが助からんことには、私たちも助からんと。」

    痛苦を日夜与えられた人たちの、極限を超えた苦悶に加え、加害者の罪をも引き受けたとおっしゃる。これほどの壮絶な『ゆるす』は聞いたことがない。

 

 

 

 

 

 

大川小学校の悲劇を考え続ける

 

 1946年、敗戦の翌年、文部省は、戦前の政府による教育支配を反省し、次のような新しい教育指針を出した。

 「軍国主義や極端な国家主義の国においては、教育もまた戦争の手段とされてきた。日本は、平和的文化国家になって、教育は本道にかえったのだから、教育は誰にも束縛されることなく、自由にその本分に力をつくすことができる。」

 戦後の貧困と混乱のなかであったが、教育に希望を託し、全国で創造的な教育が始まった。無著成恭の「山びこ学校」はその一つだった。語り合う、作文に書く。金がない貧乏学校だから、自分たちで金を稼いで、学校に不足しているものを補う。親が亡くなった子を、友だちが支援して一緒に働く。

 だが、朝鮮戦争が勃発し、日本は朝鮮戦争の米軍基地となった。日本の政治は、教育の国家統制を強めていった。戦後生まれた日本教職員組合は、戦争に加担し、教え子を戦場に送った罪を懺悔して、「教え子を再び戦場に送るな」という不滅のスローガンを掲げた。

 どんな学校を創るのか、民間教育団体が次々と生まれた。民主主義教育を模索し、日教組の全国教育研究集会は全国津々浦々、所を変えながら、毎年開かれることとなった。

 群馬県僻地の島小学校の教育実践が注目を浴びた。斎藤喜博群馬県教組の役員だったが、自治体から推薦されて校長になり、生き生きと歌い学ぶ歓喜の学校を児童と教員でつくりあげていった。

 だが、それから後、政府の教育統制は次々と手を打たれ、教育委員、学校長は任命制になり、教員への勤務評定が制度化され、任命による主任制が敷かれ、主任手当てが出された。

 それから年月が過ぎて、学校を拒否する子どもが出てきた。私の見てきた学校現場は、職員会議でも討論がほとんど無かった。教育実践も教育観も感じられない人が管理職になっていた。

 かつて竹内敏晴(宮城教育大学教授)は、述べていた。

 「学ぼうとするものに向かって語りかけ、相手と触れ合い、対話し、心の内に何ごとかを起こすこと、これが本来教えることだと思う。教師が語りかけることを知らない、語りかけることができないとすれば、文化としての言葉は死滅する。教育は死滅する。

自分の考えが他人と違うと思う時は意見を述べる、話し合う。だが現実には対話が成立していない。ほとんど言いっぱなしだ。会話というのは、相手に働きかけて自分の考えを伝え、相手の考えを聞く。そうして自分の考え、または相手の考えが変化する。そこにドラマがある。今の教育現場にはドラマがない。子どもを育てる学校に、教育が存在していない。これは致命的なことではないか。」

 

    津波が来るという非常事態は、一種の興奮状態にある。その時、管理職か主任は、命を守るために適切な指示を出せないでいたのか。教員たちは指示をただ待ち続けたのか。

  あるいは、教員たちは、管理職が出した「待機せよ」という誤った指示を、ひたすら守っていた。自分の意見を出さず管理職に従うだけの、指示待ち人間になっていたのか。

 ここに潜むものを、究明しなければならないと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜすぐに逃げなかったのか。

 

<前々日からのつづき>

 

 日中戦争において、もっとも多くの屈強な兵士を送り出した岩手県、中でも北上山地の広大な地域の村々からは多くの兵士が戦場に出ていった。そして兵士たちの多くは戦死した。

 その岩手、東北の地に「生活綴り方教育運動」が起きた。綴り方教育は、子どもたちに過酷な生活現実をよく見て文章につづらせ、それを発表して子ども同士で話し合い、現実を見る目を育てることを目指した。戦時下ではその教育と指導者は、支配権力者によって厳しく弾圧された。

 戦後、「生活綴り方教育運動」は再興し、全国各地ですぐれた実践が生まれた。山形県における無著成恭の「山びこ学校」、群馬県島小学校長となり、「島小教育」の名で教育史に残る実践を展開した斎藤喜博の実践、新潟県の教員、寒川道夫指導による大関松三郎の詩集「山芋」の発表、多くの実践が花開いた。

 日教組は、不滅のスローガン「教え子を再び戦場に送るな」を制定し、発表した。

 しかしその後、教育への国家統制が厳しくなり、教員の政治活動制限、教育委員の公選制廃止、勤務評定の実施とつづいた。

 

 社会の情況と政治の情況は教育に反映する。学校教育と社会の情況は、子どもたちに反映する。

 今、学校に教員たちの活発な討議が存在するか。教員のなかに豊かな連帯感があるか。

 教員たちは、創造的な教育実践を行っているか。

 そして再び問う。

 石巻市大川小学校の悲劇はなぜ起こったのか。

 なぜ50分も校庭で動かずにいたのか。

 なぜ子どもたちは、「先生、逃げよう」と言わなかったのか。

 言っていたけれど、先生はそれに応えなかったのか。

 同僚同士で速く避難しようと、会話しなかったのか。

 会話していたけれど、上からの指示を持っていたのか。

 日ごろから、言われることに従う、受け身の関係だったのか。

 

 疑問は尽きない。これを調査することは、今の日本の学校現場をえぐりだすことになるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もう一つの奇跡

 

 

    大川小学校の悲劇について考えていて、ではあの東日本大震災で、震災後に話題になった「津波てんでんこ」が、なぜ働かなかったのだろう。

   調べていて、次のような記事に出会った。

   「津波てんでんこ」というのは、「てんでんばらばらに急いで早く逃げよ」という、津波から逃れるための教えである。三陸地方では昔から大地震が起きたら、「津波てんでんこだ」と伝えられてきた。釜石市には、「命てんでんこ」、「命てんでん」と言う。「自分の命は自分で守る」、人のことは構わずに、てんでんばらばらに、早く逃げる。逃げる人々の姿が逃げない人々に避難を促す。

    この言葉を防災の標語として提唱したのは、山下文男という人だという。「自分の命は自分で守る」ことだけでなく、「自分たちの地域は自分たちで守る」という主張も込められており、緊急時に災害弱者(子ども・老人)を手助けする方法などは、地域であらかじめの話し合って決めておくよう提案している。

    大川小学校の悲劇とは逆に、「釜石の奇跡」があったのだ。

   「津波てんでんこ」を標語に、防災訓練を受けていた釜石市内の小中学生は、登校していた全員が助かった。地震の直後に、訓練通りにグラウンドに集合して点呼を取っていたら、1人の教師が、「なにやってんだ!早く逃げろ!」と大声で指示したのだ。子どもたちは、「津波が来るぞ、逃げるぞ!」と周囲に知らせながら、保育園児のベビーカーを押し、高齢者の手を引いて高台に向かって走り続け、全員無事に避難することができた。釜石市教育委員会は、訓練や防災教育の成果である」と説明しており、日頃の取り組みの積み重ねだったという。

 

    この二つの事例、悲劇と奇跡の違い。何故に、この違いが起きたのか。大川小学校では、「山へ逃げろ」と即刻の避難を呼びかけた教員の声はとどかず、もう一方の学校の教員の声は、全員の命を守った。

    何がそうさせたのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大川小学校の悲劇から考える

 

 

 2016年10月の朝日新聞に、東日本大震災津波で流された石巻市立大川小学校の子どもたちと教員についての記事が載っていた。これは保存しておこうと残していた記事は、大川小学校に通っていた12歳の娘を津波に流された、中学校教員、佐藤敏郎さんの想いを聞き書きしたものだった。津波で娘を失った佐藤さんは、教職を去り、なぜこのような悲劇が起きたのかを究明し、語り部を育てる活動を始めた。 

 大川小学校の犠牲者は、児童74人、教職員10人。

    大地震の直後、大川小学校の子どもたちは津波から避難するために校庭に出た。すぐさま避難するかと思えど、まったく動かず、子どもたちは50分ほど待機して避難を開始したが、川の橋のたもとで津波にのまれてしまった。

    なぜこのような悲劇が学校で起きたのか、佐藤さんは調べるも真相がわからない。

 「安全なはずの学校で、あの子らはなぜ死ななければならなかったのか。いまだに分からないままなんです。市教育委員会は生き残った子どもたちから聞き取りをしたにもかかわらず、その記録を破棄していた。その後第三者の検証委員会が調査したものの、真因に迫ろうとしたようには見えません。

 生き残った子どもたちによると、校庭の裏にある山に逃げさせようと、何度か口にした先生がいたそうです。前任校で防災マニュアルを改訂し、地域の自然教室で教えるなど防災意識の高い人でした。だが『山へ』というその先生の声は、みんなの意思にはなりませんでした。生き残ったのは『山へ』と叫んだ先生だけでした。その先生は今も教壇に立つことはできず、家にこもりがちだと聞きます。せっかく生き残ったのに、彼が不幸になってはいけないですよ。彼はあの日からずっと口をつぐんだまま、震災直後に一度だけ遺族説明会に来て謝罪してくれたんですが、その説明は残念ながら矛盾だらけでした。もしかしたら、本人は真相を話したくても、止めようとする外部の力が働いているのかもしれません。彼が再び前に進めるように支えるのが市教委の役割ではないですか。真相解明をめぐっても、市教委は責任逃れの組織の言葉ばかりで、子どもたちの命の話にならないんです。あのとき、子どもたちはどんなに怖かったか、先生たちはどんなに悔しかったか。先生たちは必至だったと思います。もう一人、覚悟を持って『山へ』と言えていれば、みんなで意見を出し合えていれば‥‥。それができなかった。いろんな意見が出るのは当然です。だが、違う意見は批判と取られてしまう。自由に語り合うということがしづらい、そんな日常の延長に、あの時の校庭はあったのだと思います。

 校舎は震災遺構として保存されることが決まりました。残したいと最初に声を上げたのは、間一髪で生き延びた当時11歳の男の子でした。その子は妹、母親、祖父を亡くしています。」

 

   ここから我々の現実に潜むものを、この日本を考えていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スズメの狩猟がなぜ認められるのか



 

 スズメ歳時記。その本には、スズメの写真が全ページに充ち溢れていた。スズメのいろんな姿態、よくぞこれだけカメラに収めたものだと思う。愛らしいスズメ、愛情が満ちている写真集である。

 そのなかに、こんな一文があった。

 「野鳥としての生を尊重するという意味で、家で飼うために捕獲することは法律で禁止されています。一方で、一般家庭でもスズメを飼っているというケースは確かに見られます。多くが『保護飼育』というものです。事故や病気などが原因で、自らの力だけでは生きていけない野生鳥獣を保護して育てる必要がある場合、各自治体の担当部署に届け、許可が下りると、『飼育許可証』が発行され、保護飼育が可能になる。‥‥‥

 四半世紀以上前、2000年を前にしたイギリスで、イエスズメの姿が消えていることが問題になりました。その理由は、複合的なものとしか言えませんが、身近な自然の多様性が失われていることは日本でも同じで、留意すべき問題です。」

      (「にっぽんスズメ歳時記」

       KKカンゼンの出版 発行人・坪井義哉 写真 中野さとる

 

 この写真集の記事を読んで、それじゃあ、あの無双網で、たくさんのスズメを捕獲し、焼き鳥屋に売っている人がいるということは、どういうことなのだ。スズメ獲りの男は、県の捕獲許可証を持っているからいいのだと、毎年我が家の近くのススキの群落に集まるスズメを一網打尽にして獲っていく。このことを役所に訴えても、日本野鳥の会に相談しても、いっこうに問題にならず、「しかたがない」で終わってしまう。先だっては、私がブログに書いたスズメの狩猟をやめてほしいと訴えた記事に対して、「野鳥の会」メンバーから返事があり、それをブログに書くと、その記事を書いたという人から私の記事の削除を求めるクレームまで来た。これに対して私は反論し、一旦削除した記事を復活させた。いったいどうなっているのだろう。

 すでにスズメは激減している。