高村薫「土の記」より 2



 もう一箇所、次の文章を取り上げておこう。高村薫「土の記」下巻より。
 この小説に登場する農の記は驚くほど詳細だ。実際に作者の体験したことがベースにあるのだろうか。
 東日本大震災のとき、大地は。

 <新月の前の糸のように細い月は夜明け前に上り、日没のころに沈むので宵の水のなかに月はない。用水路の魚たちは、いつも見る月が無いことで暦が進んだことを知り、カエルたちは月明かりのない水辺で力いっぱい声を張り上げてメスを呼びつづけ、アメリカザリガニは夏の繁殖期に備えて真闇の畦をのしのし歩き回る。一方、人間は種モミを播いて発芽を待ちながら、いつもの年なら一斉に育ち始める畑の作物の管理に追われ、日が暮れるのを待ち兼ねるようにして疲れた身体を布団に横たえるのだが、この春は、昼も夜もふだんはわざわざ聞き入ったりしない物音や生き物たちの声に聞き入り、ふだんは仰いだりしない月を仰いで物思いにふける。実際、水たまりに見入った十数秒の間に、またしても考えようとしていた当の事柄は行方不明になり、入れ替わりに身体に残っている泥田の余韻が再び立ちあがってくるままに、いまはまた大地の表土が津波に押し流され、引き戻され、撹拌されて泥に変わる音を聞いていたりする。津波に呑まれた人びとが最後に聞き、冬眠中に流されたカエルたちが聞き、海底の魚や貝たちが聞き、太平洋に広く伝播していった土の音。>


 昨日、このブログに別の記事を書いていた。その記事は、ここ数日間の、草に覆われた畝に、備中鍬を打ちこみ、コロコロと転がり出るジャガイモを掘り取りながら、草のすべての根っこの土を払い落して、畦間に置いていく酷暑の作業を書いた文章だったが、それをアップする前に、突如パソコンが理由も分からずシャットダウンして、保存していなかった記事は完全に消滅してしまった。その文章をもう一度書く気にはなれず、あきらめて、今朝は「土の記」の一部分を紹介することにした。
 
 災害は今も、人びとが営々と営んできた暮らしを破壊し、暮らしを支えてきたすべてを奪い去っていく。