「アウシュビッツ」を繰り返さない人間社会をつくることができるか。それは人間の大きなテーマだ。
今イスラエルのやっていること、ガザで起きていること、これは、いったい何なのだ。
第二次世界大戦でのナチスの非道に、「アウシュビッツ」があった。
「いったい神はどこにおられるのだ。」
この苦悶の問いに対する、どんな答えも存在しなかった。
ベン・コリンは言った。
「ユダヤの子どもたちは、かまどで殺され、焼かれていった。彼らはすべて人類に代わって、苦難を背負った神のしもべたちなのだ。アウシュビッツは現代の人類のゴルゴダなのだ。」
エールリッヒは言った。
「ユダヤ人であるイエスは、アウシュビッツで、同胞のユダヤ人とともに焼かれてしまったのだ。」
グレイは問うた。
「アウシュビッツで、人間はどこにいたのか。それを阻止する人間がいて、抵抗がなされていたならば、神の存在が問われることはなかっただろう。どうしてアウシュビッツは起きたのか。」
第二次世界大戦は終わり、パレスチナにイスラエル国家が建設された。それは果てしないアラブとの戦争だった。
子どもの頃、アウシュビッツを体験したユダヤ人のヴィーゼルは問う。
「最大の問いは、神の沈黙だ。人間は、人間からは、もはや期待できない。しかし神からは何かを期待することが許されるのではないか。だが、なぜ神は口を開こうとしないのか。なぜすべてを見逃してしまうのか。」
男がたずねる。いったい神はどこにおられるのだ。
心の中で、ある声が応える。
「どこだって? ここにおられる。神はここに、主(しゅ)はこの絞首台に吊るされておられる。」
問いは、つづく。
「アウシュビッツで神を問うことよりも、アウシュビッツで人間はどこにいたのかを問うことではないのか。」
アウシュビッツはいかにして起こり得たのか。アウシュビッツを繰り返さないことは可能なのか。それは、アウシュビッツ以後に生きるものの真の問いでなければならない。
今、イスラエルは、どう応えるのか。
アラブをどう考えるのか。
無限の闘いの行きつく先に何があるのか。
遠藤周作の小説「沈黙」が私の頭に浮かんだ。
日本にやって来た宣教師ロドリゴは、ひたすら神の奇跡と勝利を祈るが、神は「沈黙」を通す。逃亡するロドリゴはやがて捕らえられ、牢につながれた。ロドリゴに向かって、すでに棄教して釈放されていた仲間の宣教師フェレイラが告げる。
「棄教しない限り許されない」
自分の信仰を守るべきか、棄教という犠牲をはらって、イエスの教えに従い苦しむ人々を救うべきなのか。
突きつけられたロドリゴは、ついに踏み絵を踏むことを受け入れ、奉行所の中庭で踏絵を踏んだ。足を襲う激しい痛み。そのとき、踏絵の中のイエスの声が聴こえた。
「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つために十字架を背負ったのだ。私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」