羅須地人協会での賢治の授業


1926年(大正15年)、三十歳の賢治は花巻農学校教師をやめた。
「この四ヵ年が、わたくしはどんなに楽しかったか。わたくしは毎日を鳥のように歌って暮らした」
農学校をやめる理由の中に、自ら農民の暮らしに入ろうという決意があった。
賢治はひとりで自炊生活をしながら、羅須地人協会という名前をつけた活動を始める。
近くを北上川が流れ、雄大な種山が原や早池峰山が眺められる地だった。
賢治は野菜を作り、農村青年に科学と芸術を教え、レコードコンサートを行う。
楽器チェロを買って練習し演奏もした。


集会と講義を計画すると、賢治はガリ版で印刷して案内状を配ってまわった。
その中に、こんなことが書かれていた。


『今年は作も悪く、お互い思うように仕事も進みませんでしたが、いずれ、明暗は交替し、新しいいい年も来ましょうから、農業全体に大きな希望をのせて、次の仕度にかかりましょう。
定期の集まりを、十二月一日の午後一時から四時まで協会で開きます。日も短くどなたもまだ忙しいのですから、おいでならば必ず一時までにねがいます。弁当を持ってきて、こっちで食べるのもいいでしょう。』

そして、集会で行なう予定が書かれている。
冬の間に製作するものの分担についての話し合い。
製作したものや種苗などの交換、売買の予約。
新人会員についての話し合い。
持ち寄りものの競売。


この持ち寄りの競売のところに、本、楽器、絵葉書、レコード、農具とあり、不要なものは何でも出してくださいとある。競売だが、安すぎたら引っ込めたらいい、と付け加えている。
今もよく見る「譲ります」「譲ってください」、
足りないものを補い合う、リサイクルである。


続いて、講義について。
『今年は設備が何もなくて、学校らしいことはできません。けれども希望の方もありますので、まず次のことをやってみます。
十一月二十九日午前九時から
われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか 一時間
われわれに必須な化学の骨組み 二時間
働いている人ならば、誰でも教えてよこしてください。
それでは健闘を祈ります。』


羅須地人協会での授業について研究した畑山博はその著『宮沢賢治 幻の羅須地人協会授業』(廣済堂出版)において、現代の教育にとって特に貴重な提言としての宮沢賢治の授業法則を指摘している。


宮沢賢治の授業法則
1、観念ではなく、絵や図を駆使して、イメージで教えようとする。
2、大自然の現象や法則について、目の前に見えているのは、ほんのささやかな細部であって、その奥に途方もなく広い「全体」があるのだと教える。
3、それはすなわち、自然における循環、輪廻という思想にゆきつく。
4、それは単に自然現象のことにとどまらない。しばしば心の領域と融合する。
5、語られることとオーバーラップするようなイメージや言葉の多くが、別の文学作品の中でも検証できる。』


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