労をねぎらう




「労をねぎらう」という言葉があります。広辞苑を引くと、「ほねおりを慰め、労を謝する」とあります。
よくやってくれましたね、おつかれさまでした、ありがとう、という気持ちを表します。
子どものころ、母の実家のおばあちゃんの家に行ったとき、叔父が撚糸工場で機械の修理をしていました。
それを見ていたら、叔父が、家に帰って道具を取ってきてくれ、と言って、道具の名前を言いました。
ぼくは工場から走って数百メートル離れたところにある祖父母の家にもどり、はさみを持って一生懸命工場に走っていったのです。
叔父は、
「何を持ってきたのだ。ばかもの。どんな耳をしているのか」
叔父の言ったのは、はさみではなく別のものでした。どういうわけか分からないのですが、はさみだと思ってしまったのです。
このときの光景と叔父の放った冷たい言葉は今も心に残っています。
しょんぼり力を落としたぼくは情けない、みじめな気持ちでいっぱいでした。
後にその時の心境に、屈辱的という言葉が重なりました。
叔父は、修理に一生懸命だったのでしょう。いらいらしていたのでしょう。だから、腹が立ったのだと思います。
結局、役に立たない失敗をしてしまったから、家まで走って帰って持ってきたけれど、「ありがとう」という言葉はなく、「労」に対して、「ねぎらう」というのはありませんでした。
期待している結果が出なければ、苦労し一生懸命の努力しても、「骨折り損のくたびれもうけ」になってしまう。
けれども、そういうものだろうか。
今思うと、こういう叔父のような対応を自分もその後の人生でいっぱいやってきたのではないか。
そうして、自分の放った言葉が、相手の心に刺(とげ)のように突き刺さっているのではないか、と思います。
結果や効果を重視する仕事のなかで、やってしまっていた、そのことを痛感します。
その人がやってくれたことが、結果的には効果のないことであったとしても、
役に立たないことであったとしても、
自分の望んだことではなかったとしても、
気に入らなくても、
失敗や間違いであったとしても、
時間をかけ、誠意を持って一生懸命やったことの相手の「労」は、厳然と存在するのです。
ところが、そのいちばん重要な、その人の苦労や努力を考慮にいれずに批判すると、行為全部をダメだと全否定することになってしまう。
結果を重視することは、目的を持って行動する場合とても大切なことです。
目的や価値基準を持つ限り、期待した結果が得られるように、努力しなければならないのは当然です。
それでも結果の如何にかかわらず、過程への「いたわり」、「ねぎらい」は、消えてなくなるものではない。
この「ねぎらい」「いたわり」「感謝」の心が薄くなると、人間のつながりが崩壊していくように思います。
あれもダメ、これもダメ、否定がいっぱい、
今や結果主義の世の中になってしまっているように思います。
結果の背後にある過程は、よく見ていないと分からない。
学校の中で、子どもの生活をよく見ていないと過程を見失います。
テスト主義におちいると、点数で判断してしまい、人間を見なくなる、
生きて行動しているその過程を注目することが大切です。


「はさみを持ってきたのか。ハッハッハ、違うよ。○○だよ。走っていってくれたのかい。すまないね、ありがとう、もう一度行ってきてくれるかな。」
叔父がこう言っていたら、叔父の人間の温かさが伝わってきただろうな、と思います。
あのこと以来、ぼくは叔父を避けるようになってしまいました。
小学4年生ぐらいだったと思います。


思えばこの世界、無数の「労」によって成り立っている、
ねぎらいの言葉はなくても、無数の人の、無数の生物の「労」が充満して成り立っている。
せめてはその「労」を見つめて、それをねぎらい感謝したい。