「狂気の歴史」・「監獄の誕生」

 「ミシェル・フーコー/情熱と受苦」(ジェイムズ・ミラー)のなかに、こんな一節がある。
 「『狂気の歴史』で、フーコーは、狂気というものについての認知が劇的な変化を遂げた、と説いた。狂人たちは、中世においては自由に歩き回り、敬意をもって見られていたのに対して、今日では、『見当違いの博愛主義』によって精神病院に閉じ込められ、病者として扱われている。科学的知識を啓蒙的・人道的に適用しているかに見えるものも、巧妙に潜行する新しい型の社会統制だと、フーコーは説いた。」
 

 「狂気」「狂人」は、人々に害をなす危険なものだから、「閉じ込めて当たり前」「その人は特殊な人間だから排除しなければならない」ということになる。さらに、「普通とは違う考えを持ち行動する人」「常識では考えられない人」であるから、権力者の考える秩序と統一に反する。
 権力者は、「普通」や「常識」を国民に押し付け、一斉にその色に染めようとする。ソビエトスターリンは、染まらない人を粛清したりシベリアの自然の監獄に送ったりした。ナチスドイツは、ゲルマン民族至上主義を掲げて、ユダヤ人、ロマなどを強制収容所に送った。日本は天皇軍国主義に染まらないものは非国民として刑務所に入れた。


 「監獄の誕生」においてフーコーは、近代の監獄の発生を詳述した。
 「より多くの穏やかさ、より多くの心遣い、より多くの人間らしさを監獄制度に導入しようとする努力は罠であった。近代の監獄は、身体刑の過酷になりがちな刃を和らげることに成功したというまさにそのことゆえに、人目に立たない、苦痛を与えないタイプの圧政の縮図となった。フーコーの非難するところによれば、学校や職場から軍隊や監獄にいたるまで、われわれの社会の中核をなす諸機関は、効率的に個人を管理し、個人の危険で有害な状態を消し去ろうとした。また、感覚をマヒさせてしまうようなさまざまな規律・訓練のきまりを植え付けることによって個人の行動を矯正しようと努めてきた。その必然的な結果が、創造のエネルギーを奪われた『従順な身体』であり、御しやすい精神であった。」

 かくして、権力機関が直接行なわなくても、一般庶民が統制社会の積極的な担い手になっていく道を世界中がこれまで体験してきて、なおその道をたどろうとしていることが恐ろしい。