井口喜源治記念館は、アルプス線(大糸線)の穂高駅から東へとっとっと歩いたところにあります。
駅前通りにひっそり建つ、小さな小さな平屋の記念館です。
喜源治の教え子の彫刻家、荻原碌山の美術館と比べると、それはそれは質素な記念館でした。
碌山は、彫刻という芸術を残し、喜源治は、人を育てるという目に見えない仕事を残しました。
冬の日、訪れる人もいない記念館は、それでもオープンしていました。
通りに面して立て札がありました。
人格教育の先覚者として、キリスト教の精神に基づき1898(明治31年)私塾研成義塾を創設し、清貧に甘んじ独力で34年間にわたり多くの子弟(入学者700余名)の教育に努めた。
と書いてあります。
ドアを開けると受付があり、奥の畳の部屋からおじさんが現れました。
入館者もいないから、のんびりこたつに入っておられたようです。
おじさんは館長さんでもあるようです。
館長おじさんは、わずか数坪の展示室にぎっしり収められた遺品や写真の説明をしてくれました。
入ったところに、古いオルガンがあります。
鍵盤もはげて、見事におんぼろです。
これも研成義塾で使われていたもので、研成義塾を応援した、相馬黒光が贈ったものです。
喜源治が敬慕した内村鑑三の自筆の手紙がありました。
「『わが主義を信ぜよ』という者は、その主義の何たるにかかわらず必ず怪しき宣伝者と存じ候、
何よりも自由と独立とを貴ばざる者は小生は断じて受け申さず候」
明治38年の手紙です。
内村鑑三は、日清日露の戦争を通して、非戦論を主張していました。
喜源治は、この精神を受け継ぎ、研成義塾の創立の趣意書に、「吾塾は宗派の如何に干渉せず」が入っています。
キリスト教も仏教も、イスラム教も、どの宗教を信じるも自由、信じないも自由。
六項目の趣意書の項目について、館長おじさんはこう言いました。
「この趣意書の内容は、現代でも通用する趣意書です。当時強かった女性差別に対しても、喜源治は平等を貫き、女性の教師を採用し、女子教育も行いました。」
「そうですね。研成義塾が、喜源治亡き後、継承されなかったのは惜しいことでした。」
館内には、書簡の数々も展示されています。
関係の書籍、文献もあります。
暖房を入れていない小さな展示室は、よく冷えます。
石油ストーブも置いてあるのですが、点火されていません。
「大事業は人の一代に成るものではありません。数代を経てやや成功の緒に就くものであります。」
「井口君と研成義塾とは明治・大正の日本において、教育上一つの貴き意味のある実験を試みられました。
後世大いにこれに学び、これよりさらに善き人格本位の独立的教育が施さるるに至りましょう。」
書棚には、内村鑑三の全集も置かれています。
展示写真の中に、アメリカに移民した人びとのものもありました。
喜源治は、1932年までの34年間に、ひとりで800人余の教え子を世に送り出しました。
その人たちは、喜源治の志を継いで人生を送りました。
そして今もそれは受け継がれています。