ふるさと

michimasa19372009-01-15



ホームレスの人たちに炊き出しを行っていた東京の公園で、
昨年暮れだったか、
「ふるさと」の歌をアコーデオン?で演奏しながら歌った人がいた、というニュースを読んだとき、
公園にいる人々を慰めよう、励まそうと思ったのだろうか、その人の心の優しさに、少ししんみりした。
歌を聴いた人々にとって「ふるさと」とは何だろう。
公園の人々は、正月でも、帰省する故郷がないのだろうか。
故郷はあるのだけれど、帰ることができないのだろうか。
歌を聴けば、故郷が心に浮かぶ。
けれど、それは遠い彼方の「ふるさと」になっている。


幕末の詩僧、周防の妙円寺住職、月性(げっしょう)は、

男児志を立て、郷関を出づ。学もし成らずんばふたたび還らず。骨を埋むなんぞ墳墓の地、人間いたるところ青山あり。」

と詠った。
志を立てて故郷を出る。学問が成らなかったら、故郷へはふたたび帰るまい。
骨を埋めるのは何も故郷ばかりではない。
人間には、いたるところに自分の骨を埋める青山があるではないか。


室生犀星は、詠った。


  ふるさとは遠きにありて思うもの
  そして悲しくうたふもの
  よしや
  うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても
  帰るところにあるまじや


  ひとり都のゆふぐれに
  ふるさとおもい涙ぐむ


  そのこころもて
  遠きみやこにかへらばや
  遠きみやこにかへらばや


どんなに落ちぶれて、異国の地で乞食になっても、故郷は帰るところではない。
ひとり都の夕暮れに、故郷を思い涙ぐむ、その心をいだきながら、遠い都に帰りたい。


犀星は、「遠い都」とうたっている。
今いるところは都、それなのに、
故郷を思いながら、遠い都に帰りたい、という。
帰りたい、それは還りたいのだ、その心を想像する。
 

茨木のり子は、心の中の理想的なふるさとを一つの幻想でうたった。


        六月

          茨木のり子


 どこかに美しい村はないか
 一日の仕事の終りには一杯の黒麦酒(黒ビール)
 鍬を立てかけ 籠を置き
 男も女も大きなジョッキをかたむける


 どこかに美しい街はないか
 食べられる実をつけた街路樹が
 どこまでも続き すみれいろした夕暮は
 若者のやさしいさざめきで満ち満ちる


 どこかに美しい人と人との力はないか
 同じ時代をともに生きる
 したしさとおかしさとそうして怒りが
 鋭い力となって たちあらわれる




宮台真司は、現代社会に生きる若者に言う。

失敗してもいい、より多く挑戦しろ、
同調よりもチャレンジすることだ、
チャレンジして失敗しろ、
しかし、何があっても、帰れるホームベースは用意しておくべきだ。


終身雇用制の企業共同体が崩壊すれば、疑似「ふるさと」も崩壊する。
地域社会を相互扶助社会につくりかえていかなければ、
都会も田舎も、帰っていくところでなくなってしまう。
生まれ故郷でなくても、
今いるところに、ふるさとをつくれ、
人が寄り合い、
寄り添い、
そこをふるさとにしていこう、
アコーデオンでうたった人は、そういう思いだったのだろうか。