子どもの遊び研究

     七、乳幼児期から
      遊びを通して自然や人に直接触れる



1歳の孫の誕生日に積み木を贈ったら、
積み木を積んでも子どもはすぐこわしているよ、というメールが息子から来た。
親が積み木を積んでやっても、
子どもはすぐにそれを崩す、
積み木の崩れるときの快感、それを子どもは感じている。
積み木遊びの初期は、まず壊す。
気が済むまで壊す。
それがいい。
組み立てるのはもう少し高度な段階。
昔、伝い歩きを始めた時の息子も、ぼくの部屋にやってきては、
本棚の本を片っ端から落として、物が落ちる様子を楽しんでいた。
甥もそうだった。
落としたいだけ心行くまで落とさせる、
その様子を眺めているのは楽しかった。
新聞紙をびりびり破る、
本をぺらぺらめくる、
音や動きを子どもは旺盛な好奇心で観察し、
物と行為の質を五感で感じ取っていた。
赤ちゃんのときは、食べ物を手でつかんで、くちゃくちゃと握りつぶし、
あるいは手にしたものを振り回し、
食べ物意外のものも口に入れ、
物を持って、たたいて音を楽しみ、
体験を通して外界をつかんでいった。


子どもは、親がするように自分もやってみて、
物に触れ、物を感じ取り認識する。
親が立って歩くから、自分も立って歩こうとし、
親が顔を洗い、歯を磨くから、自分もやってみようとする。
親が言語を話すから、言語を吸い取り紙のように吸収する。
親が手仕事をしている。
自分もやりたい、子どもはやってみようとする。


遊びという行為と遊び以外の行為が未分化の時代、
遊びと学びは、一体になっている。
子どもがやってみようとする行為はすべて、子どもにとっては遊びそのもの。
水があれば、水が遊びの対象になり、
水とはこういうものなのかと体で感じ取る。
木があれば、木が遊びの対象になり、
草花も土も遊びの対象になる。
お風呂も遊び場、居間も遊び場、
庭も遊び場、台所も遊び場、
畑も散歩道も遊び場。
こうして自然や人間や人間の活動に触れて、遊びながら世界を認識し、
身体と心で感じ取っていく。
親はけっしてこれを妨げてはならない。


子どもは自分の意志をもって、真似てみようとし、
やがて親から独立して自分の行為をやってみようとする。
詩人、山之口獏の有名な詩、「ミミコの独立」。
ミミコは二歳ぐらいだろう。


  ミミコの独立       山之口獏


とうちゃんの下駄なんか
はくんじゃないぞ
ぼくはその場を見て言ったが
とうちゃんのなんか
はかないよ
とうちゃんのかんこをかりてって
ミミコのかんこ
はくんだ と言うのだ
こんな理屈をこねてみせながら
ミミコは小さなそのあんよで
まな板みたいな下駄をひきずって行った
土間では片隅の
かますの上に
赤い鼻緒の
赤いかんこが
かぼちゃと並んで待っていた



そして幼年期から少年期へ、友だちと遊ぶ世界が広がって、
人間としての経験の幅が太く豊かになっていく。
ところが、日本社会の変化に伴って、
子どもの乳幼児期からの育ち方の質が、急激に変化した。
高度経済成長が進み、社会の変化と家庭の変化がやがて子どもに及びだすまで、
十年から二十年経っている。
変化が、子どもの体と心にはっきり見えてきたのは1980年であった。


生活指導の理論と実践で日本の教育に影響を与えてきた竹内常一が、
子どもの心と体の変化についてこう指摘していた。
(『少年期不在 子どものからだの声をきく』(青木書店 1998)


「80年代の末には、四割の子どもがアレルギー疾患にかかっているとされ、
そのうち一割がアレルギー緊張症またはアレルギー弛緩症候群にかかっているのではないかといわれています。
アレルギー緊張症というのは、じっとしていられない、落ち着きがない、
興奮しやすい、乱暴な行為をする、音・温度・光・接触などに過敏、
悪戯の連続などを特徴としています。
それにたいして、アレルギー弛緩症は、
だるい、あくびが多い、不精、疲れやすい、無気力、不活発などを特徴としています。」

「これらの子どものからだとこころの異変は、
外的環境の変化にかかわらず
人間の内的環境の平衡を動的に調節している<自立神経系・免疫系・内分泌系――脳幹部――大脳辺縁系>の
関連構造の未成熟ないしは失調、
さらには脳幹部と大脳新皮質とを連結している大脳辺縁系の弱体化に
その原因があるのではないかと考えられます。
そうだとすると、私たちはこれまで立ちあったことのない
子どものからだに直面しているのかもしれません。」


これまで子どものなかで自然に成熟してきたものが、成熟しなくなっている。
子どものなかの人間的自然をもまた人為的に再生しなければ、人間的に成熟しないという状況にあるのか、
なんと我々は、神の仕事ともいうべきテーマに直面しているのだ、
という恐怖に似た感情を90年代の竹内は吐露していた。


小児科医師の古荘純一は、
その著『不安に潰される子どもたち ――何が追いつめるのか』(祥伝社 2007)
のなかで、学校にも行かず、働きもしないニートの増大の根本原因は、
コミュニケーションがうまくとれないことだと述べている。
そしてコンピューターゲームに関してこんな主張をしている。


「ゲームの登場によって『男の子たちの堕落が始まった』といっても過言ではないと思っています。
勉学面で男の子のほうが劣るようになったのは、明らかにゲームの影響です。
ゲームで遊ぶようになってから、鬼ごっこやかくれんぼ、ベーゴマ、メンコといった
伝統的な集団での外遊びをしなくなりました。
外遊びで昔の子どもたちはかなりストレスを発散してきたのですが、このストレスに関して、
脳科学の分野でいろいろな研究が進んできています。」


自然や物、人間や社会に触れて実体験することが少なくなり、夜もバーチャルな世界に没頭して、
友だちと遊ばない現実。
これは子どもの成長に決定的な変化をもたらす。
長い人類史の中で培ってきたものが、ここに来て崩壊していこうとしている。


シュタイナー教育の実践家、吉良創は、次のようにとらえている。
「子どもは遊びや生活の中で、
様々な質を、直接感覚を通して体験する。
それは自分の質を育てることである。
外界の質と出会うことによって、自分の質が育つ。
質というのは、物事のなかの、数量化して扱えない部分である。
質の部分は直接の感覚印象の背後にあって、
それ自身は見えない。
人間の中にある人間としての質、
見えない部分である質的精神的な核であり、
その人のその人たるゆえんであるものが、
幼児期の、質と出会える感覚体験によって養われていく。」
(吉良創「シュタイナー教育 おもちゃと遊び」・学習研究社
吉良氏は、南沢シュタイナー子ども園の教師である。


狼に育てられたアマラとカマラは狼になった。
コンピューターゲームと密室で孤独に育てられた子どもは何になるだろう。