便り

 

 シモヤンの奥さんから、ハガキが来た。

 「残暑が厳しいなか、いかがお過ごしですか。突然ではございますが、夫・國夫は、去る七月二十一日に、肺ガン(小細胞癌)で急逝しました。」

 えーっ、一瞬言葉を失った。この夏、シモヤンにも暑中見舞いをだした。その返事がこの訃報だった。

 とうとうシモヤンも逝ってしまった。彼は、大学山岳会の1年後輩だった。初めて彼に会ったのは、山岳部に入部した彼が夏の剣岳合宿に参加した時だった。ぼくら先発隊は、真砂沢でベースキャンプをはって、富山側から黒部川をさかのぼり、欅平から、登ってくるシモヤンを含む本隊を待っていた。ベースキャンプに着いたときのシモヤンは、青息吐息だった。

 去年だったか、シモヤンは山岳会同期のタケチュウと、今は東南アジアの国の日本語学校にいるという山岳会の後輩に会いに行ってきたと手紙に書いてきた。おう、彼はまだまだ元気だ、ぴんぴんしていると思ったのだったが‥‥。

 

 山岳会の仲間も、教職の元同僚たちも、教え子たちも、次々と逝く。

 送った暑中見舞いへの返事が来ない人は、大丈夫だろうか。

 

 淀川中学卒業生の貞子さんからは、封書が来た。彼女は、小学校教員

を勤め上げ、今は悠々自適の暮らしをしている。

 貞子さんの手紙。

 

 「61年ぶりに、万太郎に夏休みレポートを出します。

  ウクライナやガザのニュースが放映されています。ガザの状況は、79年前の日本の街と同じです。私の中の日本の空襲は、それまで白黒でしたが、カラー映像に変わりました。ウクライナの報道を見て、かつて日本がアジアや太平洋の国々への侵略者だったことを想います。あの頃の世界の人々は、今私たちがロシアを見るように日本を見ていたのだろうと思います。イスラエルのやり方ではハマスは無くならない。もっと強力なハマスをつくるだけです。ロシアの人々よ、あなたたち自身の手で、矛を収めることができないのですか。

 人間は、第三次世界大戦なんてもうしないだろうと、楽観的に考えていましたが、本質的に人間の心の動きは変わっていないのでしょう。ふと、手塚治虫の「火の鳥」を思い浮かべます。

 私は教師として、近現代史をきちんと提示できていなかったという反省でいっぱいです。私はもだえ苦しんで、この文章を書きました。教師生活でよかったと思えることは、自分の考えを押しつけたりせず、徹底的に子どもたちと話し合いながら進めることができたことです。これはかつての吉田学級の、国語の授業や、ホームルームのおかげだと思います。」

 

 貞子さん、お元気そうで、うれしかった。