柔道は剛道になってしまっている

 

    オリンピックの柔道戦、見ていてやりきれない思いがする。つかみあいだ。腕づく力づくで、攻撃をしかける。負けた選手が腹を立てて、相手選手の股間を蹴るという行為があった。これではケンカだ。柔道ではない、剛道だ。いったい柔道の精神性は、どうなったのか。もう柔道の試合は見たくない。

    戦後の小学生時代、観音さんの近くに柔道場があった。道場の窓からのぞくと、若者たちが柔道の稽古をしていた。ぼくはしばらくそれを眺めるのが楽しみだった。道場では、師範の男性が指導していた。

    戦後の日本、戦争の深い傷あとが残っていて、親や家をなくした子どもたちが「浮浪児」と呼ばれ、街の中で靴磨きなどをしていた。その「浮浪児」をテーマにしたラジオドラマが「鐘の鳴る丘」で、夕方に始まるその放送を、多くの子どもたちは楽しみにしていた。ぼくの住む藤井寺町と、町の自治体警察は、青少年の健全育成を目的にした無料の子ども柔道教室を、中学生を対象に開くことを考えた。柔道師範に相談すると、師範は二つ返事で応じ、その道場で週一回、子ども柔道教室が開かれることになった。

    ぼくの仲間たちはそれを知ると、「おれら柔道を習おう」ということになり、中学一年生の六人が町に申し込んだ。その開講式が警察署の道場であり、六人は道場の畳にチンと座った。町長や署長の挨拶の後、柔道師範が、こんな挨拶をした。

    「私は、講道館嘉納治五郎に教えを受けました。その教えは、柔道は、礼に始まり礼に終わる道ということです。相手を尊重し、勝ったからといって、えらそうにするのではなく、負けたからといって、がっかりするのではないのです。礼儀を重んじ、潔い人間になるのです。柔よく剛を制すと言います。やわらかい力が、強い相手を倒すのです。これが柔道であり、柔道の精神です。」

    こうして子どもの柔道教室が始まった。ぼくは父親が旧制中学時代に使っていた柔道着をもらって、それを着た。ほかの友だちは道場のけいこ着を借りた。

    師範は子どもたちに、自然体ということを教えた。二人が向かい合って相手の柔道着の襟をつかむ。

    「力をいれない。自然な状態で立つんだ。技をかける時に、相手の力を使って投げるんだ。」

    すり足で二人は動き回りながら、すきを見て技をかける。こうして寝技、立技を習った。

    講道館嘉納治五郎はどんな人なのか、師範はこんな話をしてくれた。

   「柔道の神髄は、自他共栄です。嘉納治五郎日本体育協会を創立し、国際オリンピック委員会の委員になりました。1912年にストックホルム大会に二人の日本人選手を送っています。柔道は技の追求をもって精神を鍛えるものです。」

    嘉納治五郎は1938年78歳で他界された。

    世界に広まりオリンピックにも入った柔道、嘉納治五郎の精神は世界の人たちに伝えられているのだろうか。