私の叔父、茂造は、召集を受けて海軍に入隊し、サイパン島に出撃、米軍の攻撃を受けて 叔父は海の藻屑となった。叔父の遺骨は戻ることはなかった。
サイパン島は、日本が第一次世界大戦のときの勝利者側になったために日本の委任統治領となり、たくさんの日本人が入植していた。だが、第二次世界大戦で日本が敗北して、今は北マリアナ諸島連邦の島になっている。
日本人入植者の、小玉和子さんの手記がある。(「戦争が立っていた」暮らしの手帖社から)
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サイパン島は、南十字星やエメラルドグリーンの海がきれいでした。島の日本人は、アメリカ軍の攻撃によって玉砕の運命をたどり、1944年、日本軍三万人。住民一万人が戦死しました。
6月11日、米軍の攻撃が始まりました。空を覆う敵機。街はたった一日で消えました。私たち家族は父母と子ども四人。民間人は25000人。海岸道路は死体で埋まりました。水は一滴もなく、「水、水」と泣く子。母と子が、米軍の攻撃を逃れて、防空壕に入ろうとすると、日本兵が叫ぶ、
「泣く子は殺せ! 防空壕から出ろ!」
その母は子どもを殺し、自分は海に飛び込んで死にました。
私の父は、私の眼の前で弟の首を絞めました。弟の死に顔は今も忘れられません。母は、弟のなきがらを抱いて、水、水、水と叫ぶ私にたまりかね、水を求めてジャングルの中を歩きまわりました。
「盛男、ゆるして! お前を殺したのは母ちゃんだ。どうせ死ぬのなら、母ちゃんの膝で死なせたかった。」
弟の死から8日間、夜に歩き回りました。山の上に米兵がいて、銃を撃ってきて、父が殺されました。アメリカ兵は、民間人は殺さないと、呼びかけていましたが、父が日本兵と間違われて殺されたのです。
私たちは米軍の収容所に入れられました。そこでの生活は2年に及びました。栄養失調で数十人が死にました。