「夕映えのなかに」、読者からの問い

 

 「夕映えのなかに」巻末の、万太郎に退職を決意させた自身の行為は、何故に生じてきたのか、それまでの万太郎の生き方とは異質ではないか。この問いは重い

 自身の行為は、自身の精神の問題だった。教員の心の状態は、生徒に跳ね返る。教員は単なる「教える人」ではない。

 万太郎が、「生徒たちはおもしろい、一緒に暮らすのは楽しい」と思っていた時は、子どもたちもそう思い、教員に対して能動的に心を開いた。だが、転勤して二年目、万太郎は、自分ではない自分に心が沈み、閉鎖的になっていた。それが「行為」につながり、自己を破砕した。

 学校という世界は閉鎖集団になっている。そして教員一人一人は閉鎖的な仕組みのなかで生徒に接している。

 

 1970年、イヴァン・イリッチは、「脱学校の社会」「脱学校論」を発表した。

 「今の学校は、教育をするのではなく、学校という制度を押し付けることで、主体的で自律的な学びを教育の場から締め出している。」

 本来「学び」というものは、自由な状況の中で、主体的に自律的に行うことによって成り立つ。だが、制度としての「学校」は、教育の主体性や自律性を奪う存在となり、そうなると、社会もまた「学校化」されてゆく。

 「脱学校論」は、本来の教育を取り戻すために、学校という強固で閉鎖的な、独善的な「枠」を取り払うべきだと主張した。

 

 万太郎は閉鎖的な「学校」で、閉鎖的な「自分」になり、閉鎖的な「指導」に流された。

 「夕映えのなかに」の「百済野の学校」に、万太郎は、高野生「僕の学校はアフリカにあった」を書き込んだ。当時、「登校拒否」と呼ばれた行為に生きた高野生の実話。

 

 「学校」とは何か。学校に行かない子どもたちは増え続けている。