奥崎謙三はどう生きたか

 奥崎謙三の衝撃的な記録を読んだのは、1972年だった。このような人物がいるのか、人生をかけて自分の体験した戦争を語り、責任を追及し、戦友の怨念をはらそうとする執念のすざまじさに圧倒された。この読後感は我が胸に刻まれた。
 戦後24年たって、事件が起こった。1969年の正月、皇居の一般参賀で、ニューギニアからの復員兵、奥崎は天皇に向かってパチンコ玉を発射した。「ヤマザキ天皇を撃て!」と、戦友の名を叫びながら、奥崎は、ゴムのパチンコでパチンコ玉を発射する。玉は当たらず、奥崎は私服警官にその場で逮捕された。そして懲役1年6か月、服役。
 「ヤマザキ天皇を撃て!――“皇居パチンコ事件”陳述書」がその奥崎の記録だった。
 この8月31日の朝日新聞の「be」に、奥崎謙三ドキュメンタリー映画「ゆきゆきて 神軍」が取り上げられた。記事を読んで、奥崎謙三の記憶がよみがえった。

 1943年4月、徴兵された奥崎は、激戦地イギリス領東ニューギニアに派遣される。戦場は悲惨だった。部隊は敗走に敗走を重ね、飢えとマラリアに苦しみ、戦友は次々と倒れていった。千数百名のうち生き残ったのはわずか30数名。7月、「米兵よ、自分を撃て」の意で、"GI, Come gun!"と叫び、投降して奥崎謙三は豪州軍の捕虜となる。かくて奇跡的に命を得た。
 戦後、奥崎はどう生きたか。彼は、無念のうちに死んでいかねばならなかった戦友たちを終生忘れることができなかった。仕事の合間に彼は、戦友への慰霊と戦争責任の追及、そして部隊の上官への報復を実行しようと考えた。奥崎単独の、奥崎流の過激な行動だった。そして天皇パチンコ玉事件を実行に移す。それは、パチンコ玉を撃てば自分は逮捕され裁判にかけられる。そうすれば裁判のなかで、原告側の被害者天皇と加害者としての自分が向かい合い、あの戦争の責任を追及できる、そう考えた。
 しかし天皇という特別な存在に対してそれは不可能だった。結局、パチンコ玉を撃ったことで奥崎は1年6か月の懲役を受ける。戦時中までの刑法にあった不敬罪は戦後は削除されたが、国民の精神のなかに潜んでいる不敬罪の意識が、1年6か月の懲役に現れた。
 奥崎は服役後も次々と行動する。
 1974年、残留日本兵救出の目的でグアムを訪問。1977年・1980年・1983年参院選全国区に出馬、落選。1983年、記録映画・『ゆきゆきて、神軍』制作、西ニューギニアロケ。つづいてパプアニューギニアで慰霊。
 「戦病死」した兵士の死の真相を追い、元中隊長ほか3名の上官殺害を決意。元中隊長宅を訪れ、長男に発砲し、殺人未遂罪等で懲役12年の刑に服する。1998年、映画『神様の愛い奴』に主演。2005年、死去。
 参院選に立候補したのも、事件を起こしたのも、戦争と軍の責任を追及するためだった。このような人生を歩んだ奥崎の執念深さはどこから生まれたのだろうか。
 沢木耕太郎は、「時の廃墟」(沢木耕太郎ノンフィクション 文芸春秋)のなかで、奥崎のことを書いている。沢木耕太郎は直接奥崎に会って、取材している。(「不敬列伝」)

 軍隊で彼は無意味になぐられた。
 「私はなぐられながら、『なぜこのようになぐられなければならないのか』と疑問を持ち、進級できなくてもなぐられないほうがいいと思い、なぐられている途中に立ち上がり、黙って炊事場を出て行きました。そして、もうこれから先は誰にも絶対になぐらせないと、固く決心しました。
 私たちは昭和18年ニューギニアに上陸してから、毎日、爆弾、銃撃、雨、飢餓、疲労の連続でした。」
 仲間たちは傷つき、病に倒れ、発狂したものもいた。奥崎もマラリアにかかり、体を引きずりながら逃げた。そして被弾する。
 「私は、自分の生命があと何日もないと考え、日本に続く海まで行って塩水を飲み、見晴らしのよい場所で死のうと決心しました。」
しかし彼は捕虜となった。
 「私は、日本に生きて帰ることに、背中に何か目に見えない大きな重荷がいっぱい背負わされたような重苦しい感じがしました。‥‥その罪悪感から少しでも解放されるためには、何か私が得心のいく、人間的な行為をいつかする必要があるような気がしつづけていました。それが何であるかは、はっきりと自分にもわかりませんでした」

 奥崎は上官から受けた理不尽な制裁を許さなかった。泥濘のなかに倒れ、飢えて死んでいった戦友を悼み、かたきをうとうとした。決してあいまいにし、うやむやにし、あきらめることをしなかった。
 深く魂を傷つけ、命を奪った者たちへの過激な報復行動、奥崎はそれに人生をかけた。
 それは間違っている行動であったが、それほど戦争が刻んだ傷は深かったのだ。
 記録映画・『ゆきゆきて、神軍』が、今取り上げられたのは何ゆえだろうか。