真夜中の不思議



今朝は初霜が降りていた。昨夜は冷えた。夜中に、隣の部屋で寝ていたランが眼を覚まし、ぼくの寝ている部屋に入ってきてごそごそ音を立てている。その音でぼくも目が覚めた。ランは何かをしようとしている。いったい何をしているのだろうと、寝床から体を起こして見ると、部屋の隅にたたんで置いてある布団を脚と鼻で押し開こうとしていた。寒くて、暖かい布団で寝たいと思ったのだろうか。「それは、だめだよ」と言うとあきらめて、隣の自分の寝床にもどった。犬も寒ければ何とかしようと考える。
こんなこともあった。先日の昼のこと、空が曇り、気温がぐんと下がって冷えてきた。ランは家の外で過ごしていた。ランのそばに縁があり、そこには風呂の足ふきマットが干してあった。ランはそれを見ると、ふんわかしたマットを、口でくわえて芝生の上に敷き、そして、その上で寝たのだ。この知恵者にはあきれた。マットを使えば、暖かくなるだろうと考えて実行、それを犬がやったのだ。
霜夜にまたランはそれをやろうとした。こうすれば、暖かくなるだろうというのは仮説である。仮説を立てて、実際にやってみて検証を行ない、暖かかったという認識を得る、こりゃ、人間の仮説実験の認識法ではないかと、犬の頭脳の不思議と、おもしろさがたまらない。秋になって、ランの寝姿が冬の寝姿になっている。体表面を最小限にして、体温の発散を少なくする、見事な円形だ。
初霜の降りた野道を行く。エノコロ草が畦を覆って咲いている。ネコジャラシとも呼んでいる草で、朝日を背にした群落のエノコロ草の白い穂を日の光が通り抜けて輝く。それはこよなく美しい。太陽が昇ってしばらくすると、融けた霜が水滴になって光る。草を踏む運動靴が濡れてきた。車のわだちの通るところは、草が生えていないから、そこを歩く。ランもそこを歩くと冷たくないことを知って、ぼくの歩いた後からついてくる。それでも靴の中まで浸透してきていた露が靴下を濡らして、冷たくなった。
江戸時代まで、人々はワラジを履いていた。霜の道も、雪の道も、ワラジで歩いた。ワラ製の雪ぐつは暖かいが、ワラジは冷たかったろう。東京オリンピックで金メダルを取ったエチオピアアベベは、裸足のランナーで驚嘆したが、江戸時代までの日本人も、寒さにも暑さにも長距離の歩行にも耐え得る頑健な足を持っていた。一日下駄を履いて走った人もいたそうだ。文明化して西洋の靴履きになり、足は保護され楽になったが、裸足で生活する足に比べると弱くなった。
霜夜で思い出す不思議な光景がある。
13年前、栃木県那須野、我が部屋は北側に田んぼがあり、東に雑木林があった。すでに稲刈りは終わって、田んぼは刈田になっていた。夕焼けを残して日が暮れ、夜が更けた。快晴だった。月は満ちていた。ぼくは暖かい布団の中で熟睡していた。夜中に、驟雨の土を打つ音が耳に入り、目が覚めた。晴天に突如の雨だ。そのときだった。蛙の声が田んぼから湧き起こったのだ。何百匹か、何千匹か、一斉に蛙が鳴く。いったいこの蛙はどうしたのだ。春、田んぼに水が入ったときに蛙が鳴くのはよく聴くが、秋の刈田に鳴く蛙というのは知らない。数分ほどして雨がやんだ。窓から外を見ると、月がこうこうと天に輝いている。蛙の声がぴたっと止んでいた。時刻は午前2時ごろだったろうか。精霊の世界を見るような不思議な感動があった。翌朝、霜が降り、秋晴れになった。

今晩から、ラン用の毛布を家内が用意してくれた。一日太陽に干して、ホカホカあったかい。